考えれば考えるほど、面白くなってくるのが「ONCE UPON A TIME IN AMERICA」のヌードルス、デボラ、マックスをあのように演じた望海風斗、真彩希帆、彩風咲奈の3ジェンヌさん。
これはいったいどんな気持ちで見つめているの?どんな思いで背中を向けているの?とあれこれ想像が膨らみました。
※各キャラ感想には結末にも触れますので、知りたくない方はこの先お読みにならないようお願いいたします。
デボラ ぶれない女性
ヌードルスが思いの丈をぶつけても、それを拒絶した女、デボラ。
観劇前はもっと野心家のギラついたショースターなのかと思いきや、ちょっと雰囲気が違いました。嫌な女にならず、主役に愛される女だったのは真彩ちゃんさすが。綺麗だった。
デボラ目線でこれまでの日々を振り返れば、あんなにドラマチックな告白演出をされても困るの、わかる…。
ヌードルスとデボラは、日陰のユダヤ人街で生まれ育ったこどもたちで、互いが淡い初恋相手なのですが、それはこの先の人生の見通しが難しい自分の為の慰めであるような、途方もなく思える大きな夢を抱き続ける勇気を奮い立たせる為の、自分の支えとするためのもの、のような想いに見えました。
白いチュチュのデボラとダボダボの服を着たヌードルス少年はおそらくこの時、13〜15歳と15〜17歳くらいか?
その後すぐヌードルスは7年刑務所へ。再会から間もなく、真紅の薔薇のシーンでしょ。
よく絆されなかったな、デボラ…、私なら再会時点でヌードルスがなんかすごい期待した目で見てくるなーてのを察し、あの貸切フレンチであーやっぱりなと思い、薔薇の部屋でもう、ちょっと待てと言えない(だって相手は望海風斗よ?) 受け入れないなんて女として難しすぎる。
でもデボラにとってみると、ヌードルスというのは子どもの頃のあわーい初恋の相手でしかない。
ヌードルスの心情が描かれるからつい、勘違いするけれど、劇中での2人の関係は結構浅い。
デボラは、あの日から夢を実現するためにひたむきに努力してきて、いまチャンスを掴もうとしているところ。
ある日出所してきた昔馴染み(無職の犯罪者)とどちらを選ぶかなんて決まってる。
それでも。
愛を率直に伝えるヌードルスをよく正面から拒絶できたな、強いなと思う。
それからもずっとデボラは、理性的な女でしたね。「現代」の、50代のヌードルスと再会して、その手を取るのかなと思ったんだけども、そんな関係でもないのよね。
でも互いの夢の中では、いまも皇帝はヌードルスであり皇后はデボラである。宝塚的。
ラストシーンの後、デボラとヌードルスは二度と会わなかったのだろうか。
デボラにとってはヌードルスは少女時代の感傷であると思ったのだけど、それは20代のデボラにとっては、かも知れない。
それから20年以上も、赤い薔薇は飾らないという台詞はちょっと嬉しかったなぁ。
特別なんだなと。
ヌードルス 「叶わなかった」男
役者 望海風斗のいまの全てが詰まった役なのではないかしら。
ヌードルス。愛しくてたまらない男であった。しかし、7年間の刑務所暮らしの中、支えであった「ヌードルスのデボラ」は存在が大きすぎた。
ヌードルスが出所後、デボラのショーを観て、さらにマックスの店で再会したときの彼の胸の内を想像するといやはや…。
おそらくこのときヌードルスは、目の前の現実のデボラが、7年間思い続けた「ヌードルスのデボラ」とは別モノであることを悟っている。
しかしそれはそうだ目の前が本物だと思い直したであろうヌードルスの、一途なあのデート。
はたしてどこまで、ヌードルスは、デボラのためを思ったか。
あのたくさんの赤い薔薇は、ヌードルスのデボラへささげるものである。
「話したいことがあるの」
と切り出したデボラに、被り気味に自分もだとこたえ、また連絡するわね…と足早に去るデボラに甘い予感なんかないのに、目の前のデボラ本人の様子をみてないのね。
ヌードルスはこのとき、話したいことがあると言われてパッと表情が明るくなり、心は決めてしまっている。
ヌードルスがずっと叶えたかったことはあの日の、白いチュチュをまとった愛らしい少女を腕の中にとじこめることだったのか、それとも目の前の生身の女性を愛していたのか。
一方的過ぎる思いの吐露なんだけども、ピュア過ぎてたまらない。ヌードルスの心は簡単に否定できるものではない。
しかしヌードルスは世界の狭い男である。そして地道な努力で真っ当な職を得られなかったのは、彼のいいところでもあり弱さでもある。ヌードルスはマックス達との情に絆された。
生き方を変えない・変えられない男でしたねぇ。
マックスに引きずられるし、デボラの方に寄っていけないし。ヌードルスは絆される人間なんだろうな。目の前のやつにとことん甘い。
50代のヌードルスは、マックスとの別れの後、あの日の時計を手に去るけれど、観ていた時は感情についていけないところがあった。行ってしまうのかと。
けれどあの時計はあの日の時計である。
マックスとの決別になるんだろうな。
ダビデの星よ、と歌っていたヌードルスは歳を取って、楽になれたのか。報われて欲しい、と思うけれど払ったものと得たものは比較できないもので、幸も不幸も誰かの物差しではかれるものではない。
マックス 「叶えた」男
スマートでカッコいい悪。
マックスはかつてヌードルスが夢に描いたような、塔のてっぺん、皇帝が座るような位置に到達した、商売上手。
お前がやるならオレもやる的な流され系ヌードルスとは違い、実に賢く計算高く、仲間と仲良くのしあがり、従順な愛人もいるという、すごくいい悪人ではありませんか。
ただ、脚本が躊躇なく細かいところを省略しているため、このマックスという人物像はあまり深掘りされていません。
話の進行は彼の動向にかかってました。しかしあっさりな味わいだったのは、芝居のポジションかなぁ。ジミーがもっと黒くなってたし。
彼はとんでもない計画に手を出し、失敗して仲間やそれまでの人生を失います。しかし、20年後の彼はまたもや、成功している。
実に意志と運の強い人。
最後のシーンも彼の半生を思えば、仕方ないもの。結局のところマックスは、自分が1番で、いざとなれば自分だけ生き残るひとと思うけれど、わざわざヌードルスを呼んだのは、友情だったんですかねぇ。
彩風さんは「キャロルのことは彼なりに愛していた」と解釈したようですが、原作知ってると見え方違うかもですね。
私は、キャロルのことは、可愛がってた犬のような扱いなんじゃないかと思う。
マックスの心情をクローズアップするシーンはなかったのであれこれ空想するばかりだけれど、舞台映えする彩風咲奈でなければ役の重さはもっと不格好で薄かったかも。
つい、キャラ感想がキャラだけの感想になる
ジェンヌたちはどうだったんかーい、とセルフ突っ込み。
観劇後に映画の方のあらすじを確認したんですけど、本編観てないので何ともですが、まったく別物ですね。
その辺はまた考えるとして、主役のヌードルス望海風斗にすっかり魅せられました。
カッコいいシーンはあるけど、役としてはかなり半端もの。原作映画では腹の内もなんとも、な人物。それを悪人でもなく善人でもなく…
某有名ブログのいくつかにて、「宗教色いる?」という感想がありました。その感想をチラ見してからの観劇だったので、あーこのダビデの星の歌や慟哭のことかと思いました。
しかし私は、「何もないヌードルス」がすがるには、他に何もなかったんだと受け取りましたし気になりませんでした。親も友人も恋人も、あの歌のシーンのヌードルス、自分の命のルーツにある神しかなかったと思うと、哀しいですね。