隣のヅカは青い

ヅカファン歴は30年ほど。しかし観劇デビゥは2019年から。それほど遠い宝塚についてのブログです。

劇場版『桜嵐記』

東京にやってきた月組桜嵐記が、宝塚大劇場版とどう違うのか、その印象を考えてみると、
ムラがテレビシリーズ、東宝が劇場版
そんな感じ。

うん、そんな感じ。



これは私の観劇の記録

あくまでいち観客であった自分の受けた印象なので、あいまいでありあやふやかもしれないが、上田久美子先生は観客に演出意図を正しく伝える努力や配慮を大変きっちりとなさる方だと感じている。つまり演出家としてただきれいに舞台をつくるんではなく、そもそも舞台芸術って何のためじゃッてことを考えて仕事しているのね。観客に伝わらなかったら意味がないわけで。
それでもバカな誤解をする客はいる。あらゆるジャンルでそれはいる。あるミステリ作家が「作品をどう受け取るかは読者にゆだねるが、明らかな誤読をされないよう編集・作家・校正は仕事をする。しかしそれでも、たとえば夜の訪れを表現するのに『太陽は眠りについた』と表現したものを、読者からの手紙に「太陽は動物みたいに寝ませんよ」と返事が来るようなことは常にある」という経験談(細かい比喩はニュアンス)を語っていた文章を思い出す。観劇者、読者ともに教養は必要で、いちばんごまかしやすい異世界ファンタジーを舞台にでもすれば多少ゆるい設定でも、作者側・観劇者/読者側双方にまかり通るかもしれないが、ウエクミ先生はフライングサパでいかなる設定にもぬるくないことを既に実証済み。
で、やはりどんなジャンルの作品であっても、一番難しいのが史実をもとにした歴史物語であると思う。こと南北朝は、資料も限られているうえに観劇者たちと共有できる、その時代の一般常識のラインもないときている。そのうえで、時代の表現、人々の生きざま、キャラクタ、舞台装置に効果と、観れば観るほど圧倒されるような仕上がりのオリジナル舞台をつくりあげた宝塚歌劇は本当に日本一の組織と思う。

7月も観みていた

東京の初日から何日も経っていないある日、私は最初の東京公演を観ていた。その前の観劇はムラのアフロ回であったので千秋楽直前。それから2週間ちょい。東京のお稽古を経てのお芝居は、なんだかまるで別モノにみえた。
彩度がぐっと上がって、輪郭がはっきりした と思った。どこがどうといえばいいのか…。情緒的でもあった、感情にまかせて流れていた部分がもういちど型にはまった、というか。「あれ?なんか全然違うぞ?同じだけど」というものが確かにあった。ただ細かい違いに関する言語化が私には難しかったので印象のみになってしまうのがもどかしいが、演出意図を変えたとかいうことではなく、お化粧直しとか、帯しめなおしとか、そういう「整えた」感じかしら。

で、やっと8月もみた

なんだろう?何が違ったのかすぐに見直したい!と思えどチケットはなく、私が友会で取れていたもう一枚は、大千秋楽週の回。もう公演数残り僅かというところなので、またなにか変化が起こっているのではと思い、どんなだろう?と思っていざ幕が開いたら、まず声がでかい(笑)。
音響…?いや真相はわからんけれども、そんなに常に声をお張りになってたかしら?と喉を心配するくらい、びんびんに元気というかなんか勢いを増していたというか。
そして桜嵐記前半がとくに、間合いが変わっていたように思う。これは演出の調整かなあ。テンポが速くなっていたと感じた。芝居が走っているんではなく、前半の全体の間合いが縮んでいたというか。逆にこの日の楠木正成の最後の独唱はゆっくりに感じた。
実際に、ちょうどキャトルレーヴオンラインさんから届いていた桜嵐記のDVDを視聴して、この収録版は宝塚大劇場版だからそんな違う違うと思っているところの差がわかるじゃないの、と観てみた。

演出ってすごいという話

朝からDVD版桜嵐記を視聴するなんてことしてみてやっぱり泣いたりしてみたところ、想像していたよりも芝居全体の印象は先日の観劇とそう変わらなかった。確かなものは同じであるし、この作品の大事なものは全部DVDに映っていた。先日東京で観劇した桜嵐記はたしかに、このDVDに収録されているものと同じであった。
とっても面白い。舞台は生ものであるからその日その日の役者のテンションや役者同士の呼吸など、毎日違うものではあるだろう。そして何より真ん中の珠城りょうが「毎日が千秋楽」と思っていつ終わっても悔いのないよう努めていることは公言されている通りで、いつも最高の出来。本当に丁寧で舞台に対して真面目で、これは誰にもかなわないことであると思う。

劇場でたびたび目撃されるたびにノートにあれこれ書き込んでいるといわれるウエクミ先生は、細かい演技指導、調整をされとるんだろうなあと感じる。それは個も場面も「よくなっている」と客席の片隅のいち観客である自分にも伝わってきたから。
湯殿チームのテンポ、大根ぶったぎり場面の次男&ももすけの間合い、そのすぐ後の、弁内侍 楠木の戦のやり方を目の当たりにして動揺しちゃったのせりふ回し、水、どお?からの正行アドリブと弟ぶーの場面、百合が戻ってきた夫に駆け寄る場面、後醍醐天皇わし死んでないからの息苦しい邂逅…
すべて微調整されていると思う。演出は同じのまま、全体的に様式美をより際立たせたかのように、感情にまみれて芝居すりゃいいてもんじゃないという気概を見せつけられたかのような。芝居の月組の真骨頂がこの桜嵐記であることは間違いないが、とにかくその完成度が数値にできるのならば、1点でもより高くなるように絶対に手を抜かないという意思を感じた。

美しいということ

宝塚の舞台において、美しさに泣けてくるというのは最高のことではないかと思う。8月の観劇は私が、劇場で月組の珠城りょう&美園さくらと、珠城りょうの月組を観る最後の機会になったのだけれども、四条畷の戦い、舞台中央奥のせりから、真っ赤な戦場の舞台へ現れる楠木正行(珠城りょう)の姿のなんと美しかったことか。
あのシーンは全部が最高でうおおおおとなるところだが、にしてもあそこで泣いたのははじめてのことだった。とってもきれいだった。

弁内侍を演じる美園さくらは語尾がちょっと上がる響きを持たせる癖があって、和物の時代物のお姫様には言葉がさがらなくてよいのだけれども、ひゅんっと上がってクエスチョンが付いているようなおかしなことになってはいけない。以前どの回かで観劇した際はこのせりふ回しがひどく気になったが、DVDに収録されているもの、そしてこの日の観劇のときはまた違っていたので、やはり色々と研究しているのかなと感じた。ジンベエを演じる千海華蘭の演技・台詞もそういえば微妙に変わっていた。ジンベエは何度も流れをぶった切るような、武士社会の物語のなかでは異質な存在としてチョロチョロするわけだけれども、この加減が最もいい塩梅になっていたと思う。基本的に「よかったのにさらに良くなったことでよさに気づく」みたいなことの連続。
この変化について偉そうな言い回しをしてしまうと、いずれも役とか存在により説得力が増したというか。
頭の悪い言い回しになおすと、いままで完璧だと思ってたかつ丼一味唐辛子振ったらうっそ奇跡の完全食になったと感じたとき、みたいな(わからない)。

限りを知るという

この舞台を観てファンは、やめないで~と駄々こねたくなるだろうが、舞台からのメッセージをきちんと受け取るならばやはり、惜しみつつも涙とともに「あっぱれ」と拍手を送り見送ることだろうと思う。本当に最後の最後まで、真に美しいお芝居だった。月組トップスター珠城りょうの退団公演、私は生涯忘れない。












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