私の10代。現役合格で東京の美大に進学した。
最も絵を描いていたのは受験期までで、進学した美大は、中に入ってみなければ想像もつかない世界だった。
大学で学んだ結果、
「デザインは理数系のアタマがないとできないぞ」とシンプルな事実に気づく。バランス思考とでもいうのか。私の知らない創作の世界は計算の連続の果てにあった。
いまアートとは無関係の仕事をしていても、あの頃の日々となんの矛盾も葛藤もない。
あの時学んだもっとも大事なことは、思考の力であった。
表現に悩むことは重い
美大に入ってみるとみんな自分より絵がうまかった。あくまでデッサンの技術のはなし。しかし私には私だけの強みがあり他人と比較して悲観はしなかったけれども、なんて素敵な絵を描くんだろって子や、オリジナルのキャラ絵が上手い子などはたくさんいて、自分の強みもまたなんてことない井の中の蛙だと思い知る。
しかし、周りの上手い子たちも皆、自分の好きなものだけではカネにならないの。
好きなことを仕事にする前に
大学の先生もだし、生徒・学生である美大生にも、個性的とか変わっているとか、多少の非常識を歓迎する風潮があるにはあった。
もとより無茶をしたい学生時代だもの。うちの大学は学祭が都内イチどうかしてることで当時は有名だったし、近くの別の美大は「あそこに進学すると女子は一度は脱いじゃうんだよね」といわれるところもあった。
いま考えればモノスゴクオカシイ。
でも美大受験は事前の予備校時代も受験も、とても厳しい上に金がかかる。都内にある美大はどこもまあ名門で倍率が音楽学校と同じかそれ以上であったし。
そんな厳しい試練をいざ乗り越えてきてみたら自分以外が輝いてみえる人に囲まれて、憧れる業界人の先生たちが講師として教えにくる。
初めてづくしの日々に自分の輪郭がボヤけて価値観もすぐ他人に左右されてしまう。
先生
あの頃、わたしたちを指導してくれた先生、それが教授だろうが講師だろうが、その方々が自分に向けてくれる指導は全部、金言にきこえた。
先生に対する好き嫌いはある。でも尊敬できる先生が言うことなら黒でもシロになるあの感覚。所詮どんなにませていようが自分は、無垢な10代の子供である。濁るのもあっという間。
彼らの常識は世間の非常識
愛のある指導ならハラスメントではないと捉えられる意見をあちこちでみた。
指導に愛があればOKで、愛がなければアウトなんだって。
愛の有無はなに? 誰か測れるの?
それって愛があれば暴力オーケーだと捉えられるけれども本当か?
愛があろうがなかろうが、人格や見た目の否定はアウトではないの?
そこに込められた感情は関係ない。あらゆる言動そのものに線引きし規制するのがハラスメントという定義では?そしてその線引きをするために必要なのが、関係性の見極め。
たとえば、初めから、5号サイズ以下の痩せ型体型を募集したパリコレモデルの選考において9号体型のモデルにむかって「太り過ぎ」というのは、募集要項と合っていないのだから、セーフかもしれない。たとえ一般的に9号は痩せ型というのが常識であっても、その特殊な場が求めるのは5号以下という特別な才能を探すオーディションであったなら、世間の常識との基準の違いも許容されるかもしれない。
音楽学校もまたそういうある種の特殊な募集に引っかかる人を選別した場であると思う。
ここで容姿端麗の者を集めることや女子だけを募集することは、そこに該当しない者を迫害することではない。
演出家が講師として、無垢な10代に接する。演出家は舞台づくりのプロとして育成されていても、人に物を教え指導するプロではない。
意図を伝えて理解してもらい共有することで、役者を舞台のパーツとして磨き思う通りに配置、動かす演出家。
芸術家感覚の演出家が絶対権力者として、それぞれの考え方でもってときには他の演出家とは真逆の指示をする。
それに絶対にこたえなくてはならない若い役者たち。彼女たちの目には、目の前の演出家は学校の先生でもあった人で、周りにいる子たちは同じ「生徒」。
日本の学校教育を体験してきた者なら容易く想像できる。
「生徒」という呼称は若く可愛いジェンヌを守り愛でる呼称でありながら、彼らをいつまでも半人前扱いし教師への服従を促し「右へならえ」「左むけ左」が揃ってできるようにする為の呪いでもある。
関西企業なんて…
私が東京都内の企業の人間として働いてウン十年。
警戒するのは関西企業。彼らは持っている理屈や常識、文化が違う。偏見アリアリでいうなら関西企業はどこもとにかくやり取りがやっかいである。偏見まみれの一言で包むなら超・昭和。ハラスメントを認識できるだけマシよ。
彼らの内に入れば人情まみれ。でも彼らが外と認識するこちら東京の企業に対しては、まあ、カライお客さんの多いこと。BtoBなのに。
生徒と先生
スカステ契約するとますます感じることだが、
舞台挨拶でも何でも、タカラジェンヌ がどうして身内の演出家をいつまでも先生と呼び、客に向かって敬語を使うのか謎で。
よそと違って、宝塚の場合演出家は社員だから身内よね。
タカラジェンヌ が演出家を上に仰ぐのは、文字通り音校時代の先生でもあり、強烈な刷り込みがあるんだと察せられる。
日本一有名だった故人の演出家も、胃薬をラムネのようにポリポリ齧りながら役者に灰皿投げつける指導のエピソードが有名。
「すごい舞台を作る演出家はアバンギャルドでいい」「キツイ指導を受けて舞台を成功させたら認められる」と、演出家という芸術家が振る無茶振りに応えて座布団代わりの拍手や賞賛や次回の良い役やを得る、身を切る大喜利大会が繰り広げられていることに、私はいままで、1万円くらいのチケット代を払って拍手を送っていたのではなかろうか。
私はこれから、出来るだけ、流す必要のない血や涙の結果としての芸術には拍手をしないことにしたい。
でも、客席からは、その違いがわからないのだ。