隣のヅカは青い

ヅカファン歴は30年ほど。しかし観劇デビゥは2019年から。それほど遠い宝塚についてのブログです。

「代役」公式が非公式化する不思議

前回書いた内容を自分で読み返していて…。そもそもなんだけど、新人公演の主演の子に代役やらせてもよかったんじゃないかねぇと思った私。

主演は「分散させない」

娘2格の二人はそもそも出番が多く目立つポジションに配置されているので、これの役替わりの影響も大変なものだったろう。

SNSでたまたま見たある人のつぶやきに、代役公演を美談にすることの危うさみたいなものに触れたものがあって。そのつぶやきの真意を誤読したくないのであらためて探したら、あるはずの時系列になかったので、ご本人が消したようだ。ただその鋭さはドキッとさせられて、その気持ちは私に確実に響いたのだ。

私はそのつぶやきに「ギリギリのなかで実現可能なすべてを詰め込んだ最善の代役公演であっても、だからって出来がいいわけではない(※実際に悪いとか悪かったと言っているわけではない点には要注意)し、代役公演の準備期間はあまりに短時間で確実に準備不足だし、それを演者と関係者の努力への感動や絶賛と混同して舞台の出来そのものを盲目的に褒めちぎるのは違う、客は愛を理由になんにでも拍手すりゃいいってもんじゃない、不都合な事実もあるよね」ってことを読み取った。
400字未満の文字にそんなこと書いてなかったのでこれは完全に私の中にあった感情が、たまたま見たつぶやきに触発されて言語化されたものであることは理解している。

舞台はもともと代役の割り当てがあるものとはいえ、ヅカのこの代役割り当て、本公演の主演の代わりにおいても序列が一番大事という事情が透けて見える。でもその序列問題がここ最近噴出しているいろいろな物事の根っこにあるものでは、と、そんなことを考えてしまう…。

記録に「残さない」

本役への配慮といえばきこえはいいがそれは感情論で、論点ずらしていないか、と思う。毎日撮影しているわけじゃないから代役公演の映像が残っていないの事情もわかるが、歌劇団はスカステがあるじゃない。あのCS放送局は歌劇団のためにだけ存在しているのだから、急な代役公演だって!といういわば「スクープ」はむしろ大いに取り上げていいのではと思う。
代役の理由はいつだって病気やケガといったネガティブなものになる。
でもそれを責めずに、普段有効活用できていない若い才能をポジティブな意味で利用・消費して双方win-winの方向にもっていくようにレアな代役公演に対してポジティブな印象でもってアピールする手法もあるのではないかしら。

動物園で、目玉のパンダやゾウが展示されていない日に「お見合い中です」とか「子育て中だよ」みたいな表現に工夫した不在通知をだすことが、今やスタンダードになっている。
来園者のがっかり感を緩和し理解をもとめ、かつ相手が生き物であり野生動物には野生動物の本能や生態に配慮した展示が最優先であることが尊重され、たとえお金払っていても来園者の「観たい欲を満たす」が一番ではないことは、動物園という存在が目に見えぬ・知らぬ生き物の展示を観ることでこの世が自分中心ではないことへの気づきを得る装置の役割を果たしている面があるためであると、そのように思っている。

舞台という生ものも、「あ、今日のルキーニ○○なんだな~」くらいのゆるさが生まれることの救いは双方にあるんじゃないかしら。それともスターは絶対なのかな。
公演期間が長い本公演には、演者のダブルキャストの余地があってもいいと思うが。

ここにきてはっきりする「管理者がいない」

110年を祝おうとする演劇集団、おまけに親会社が巨大大手企業ときて、まさかとは思っていたが、ここにきて「あ、誰もちゃんと組織運営していないんだなぁ。現場にマネジメントする人間が不在なのだな」ということを感じさせる流れに加速してきた。

代役公演を謝罪とともに提供しなくてすむように演出していく方法を取っていった方が変な話「カネになる」のにそうしないこと、について という側面からみても、これを仕切れる人間がいないんじゃないか?という気がしてくる。
ズブズブの関係であるスカステが、これ以上ないくらい重要な記者会見や誹謗中傷やめてねっていう公式発表についても、たとえばスカステニュースで取り上げることができないのも、その判断をできる人間、そこに責任とれると声をあげられる人材がいないのだろう。

だから当事者であるジェンヌたちの現場主義になった結果、醸成された世界があったのだなあと、モノは違うがうちの会社で育っている問題とも通じるものをひしひしと感じてしまった。

法的な闘争に「感情はない」

例の事件で、被害者側ご遺族の弁護士会見は、訴えるポイントをきゅっと絞った。ハラスメントと安全配慮義務違反。これはご遺族の意向をきいた法の専門家である弁護士が、何をどう訴えるかを整理した結果だろう。
なくなった方がこの法的に問題のある2点を問題視し訴えたわけではない。これは起こった事件、とんでもない悲劇に見舞われたご遺族ができることを第三者である法律家がまとめたのがこの2点だということだ。ご本人のことばは永遠に失われたのだからその気持ちはもう、天国へいってしまって我々が知ることはできない。
そして法に訴えるに有効でない言葉はあえておおやけに語られることはない。生きていた小さな世界を永遠に沈黙して去らねばならなかった彼女はそれでも舞台が好きだったという。だからこそ、だったのかもしれないと思うと本当に人の思いというものは重くて重くて、そしてあっけなく消えてしまうのだなと。

なにも「考えてない」

考えてみれば、昔の96期の頃からずっと…そもそもの問題についてあまり深く考えてなかったなと思う。
昨年だっけ今年だっけ…?もう時期も忘れた演出家ハラスメント退社問題についても「ずいぶん演出家という社員?スタッフ?がのびのびとまあ無法地帯だな」とは思ったものの、そこに潜む問題については深くは考えられなかった。その後のゴシップ報道についてもとにかくあの時はヅカ友達からきいた噂となんか色々と情報が錯綜しだして、何があったのやら、よくわからんなと。
ここ最近でもっとも嫌悪感をいだいたのは、例のコンサートでの「ちいさいほしかぜさん」の一幕。あれは、なんだかなと思ったし歌劇団側がきちんと発言すべきことがあるのではと思った。あのときの…今思えばもっといろいろと疑問を感じてもよかったのにね。私にとってタカラヅカは娯楽であって、あまりアレコレ考えたい存在じゃなかったのかもしれない。

内情など本当のところは知りえないただの観客である自分は、余計な「こうあるべき論」もあまり、あんまり書き残したくなかったんだと思う。
にしても今思えることは実に愚か者よろしく「あんまり気にしてこなかった」なあと、それに尽きる。

ボケっと消費していただけなのだ。






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