隣のヅカは青い

ヅカファン歴は30年ほど。しかし観劇デビゥは2019年から。それほど遠い宝塚についてのブログです。

一期一会だからこそ

星組さん、ありちゃん代役で予定通りの再開がかなって何より。
しかし、それでもあと13公演あるってすごい。身近な中小の舞台だと、全公演積み上げても13公演の規模ってざらだから…あらためて、宝塚歌劇団って日本最大級なんだなあと。
それをシングルキャストでっていうのはやっぱり、年齢・性別・体力に関係なくだれにとってもきついこと。
昔の日本とは明らかに気候も変わってきているということは、気候・気圧が人体・心身に与える地味な影響も侮れないわけで、そのコントロールを個人の努力と節制にゆだねる公演も限界だよな、と思った。

びっくり羽根問題

フィナーレの大羽根姿も含めてありちゃんが代打をやったことについて地味にざわざわしていたSNS界隈。
でもこれは、歌劇団側の明確な姿勢がはっきりでているというもので、当たり前のことと私は受け止めた。舞台は完成形で客席にお届けせねばならない。代打公演だからといって、路線だの羽根の有無だの並び順だのは、本来、観客には関係ないわけだ。それを歌劇団側は示したということだわ。
何十年何千公演観てきた生粋のヅカファンは当然立ち位置や羽根でスターの序列をはかるが、歌劇団側は「そんなの関係ねぇ」と。

そりゃそうよね。この日の観劇が人生初めてのタカラヅカ観劇という人がいる。その人をないがしろにするような、ジェンヌ序列による配慮なんかされたらがっかりだった。よかった。

にしても背負う方は大変

暁千星のロナンをいつかまた観てみたいと思っていたら、こんな形で本公演にあがるとは、誰も思っていなかったに違いない。それはありちゃん自身も。
本役も大きいから、代役稽古も大変だったろうに。

かつては、外部公演のダブルキャスト、トリプルキャストの方が不思議に思っていた。私が見慣れた芝居は、中小劇団の中小劇場でのお芝居には、一部客演のみ日替わりで交代っていうものはあったけれど主演が交代ってのは、珍しかったから。
四季や東宝の帝劇などの大舞台については、シングルキャストなんてものが、まずない。若いころは、芸能人が主演する舞台だからなんか事務所のアレかなとか、大人の事情みたいなものでのダブルキャスト・シングルキャストなのかな、みたいな見方をしていたけれども、色々舞台の世界を知っていくと、キャストの負担軽減のためというシンプルかつ大事な事情もあるってことを、あとから理解し始めて。

舞台にあがるひとは舞台に上がりたい人だから、同じ役を同じ公演で分け合いたくないんじゃないの?なんて思っていたそれまでの感覚がだんだん薄れていった。そういうことじゃないのね。
海外からやってくるバレエ公演なんて、その日誰が主演で踊るかはその日じゃないと発表されない なんてのが当たり前らしくって。それもなんじゃそらって思っていたけれども、コンディションに左右されるからむしろ、ダンサーのための措置であり無事に幕をあげるためのシステムなんだと理解できるように。

どうも、昔の少女漫画(舞台の主演を争うような)を愛読した影響かなかなか…抜けず。シングルキャスト至上主義みたいな考えに汚染されている。

たとえ誰が主演でも

今週末、8/27が1789の千秋楽である。公演には最後退団者セレモニーも待っている。トップスターが送り出さねばならない場面である。が。
たとえそこに礼真琴が不在であっても、それで礼真琴の才能が守れるのなら構わないと思う。ここでつぶしていいものではない。ダメ、無理。絶対。

最近すっかり足が遠のいている歌舞伎。歌舞伎を見慣れていると、なんかあったのかな、っていう舞台ってときどきあった。プロンプターっていうのか、黒子が後ろからせりふを付けていて、それをなぞって役者が台詞を喋っているのが見て取れたりね。
そんなせりふが入っていない芝居に役としての表現がどうのとか心がどうのって、言えないわけで。けれども観ているこちらとしては、まあ…そこに失望まではしない。それよりもあいた幕が無事におりるといいな、最後まで無事に終わるといいな、なんて思っていた。


そこまで真面目に追い詰めるんじゃなくて、芝居は、舞台は、芸術は、緩いところがあったっていい。それで娯楽が続くのなら。それで役者がつぶれないのなら。








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