隣のヅカは青い

ヅカファン歴は30年ほど。しかし観劇デビゥは2019年から。それほど遠い宝塚についてのブログです。

ヅカ版ベルばらにおけるジャンヌという棘

あのスターがよかったわ、とかトップ退団公演だとか、そういう視点は棚上げして、「ベルサイユのばら」という舞台作品が常に何か不思議な破綻をし続ける件について、今回舞台を破壊したジャンヌというキャラから自分が感じたことをメモ。

たぶん歌劇団にとってのベルばらは

ベルばらブームを改めて確認すると、1972年から1973年の約1年(たったの!)で連載・完結した漫画を、翌年、熱心な漫画ファンからの上演反対運動を受けつつも開幕。結果ファンからの支持を得られるどころか大ブームになるほどの大成功、ここからベルばらとタカラヅカがたぶん、興味ない人もきいたことがあるくらいに今日に続く一般大衆化をしたのでしょうね。戦後しばらくまでの古いムーブメントも過去の栄光となり、このベルばらブームがなかったら今のヅカはなかったろうね。

私がベルばらを知り、好きになったのは出﨑統監督の名作アニメありきであったけれどもこのアニメ化も、ベルばらブームを受けてからの企画だったのね。
ちなみに改めて調べたら、出崎監督は途中から監督になってたんだ…。そういえばきいたことあるわ、序盤は巨人の星のアニメをやった監督さんだった。

この絢爛な昭和の時代背景とか、ブームの引き金を引いた自覚とかもあって、歌劇団にとってのベルばらというタイトルがどれだけ大きいか、あらためて実感する。

これはフェルゼン編だったのか

今回、ここ最近ほぼ封印されていたんかというような、眠る竜ことヅカ版ベルばらを復活させた理由は、やはりタカラヅカ110周年という、彼らにとっての重要な年であることと、ベルばら公演に縁のあるトップスター、それも歌劇団が大事に育てた超御曹司系トップスターの退団公演になるからっていうことだったんではないかというのは、どのファンも「ですよね」って思ってたと思う。それがフェルゼン編なことも、咲ちゃんの新人公演主演経験からしてやっぱりねと。

つまり

ベルばらやるよの第一理由:周年記念
それがフェルゼン編になった第一理由:トップスターの思い出公演だから

だったわけだ。

でこのフェルゼン編ってのがなぁ。

歌劇団がなんといおうがベルばらは原作のものなので

オスカル様を描かなければベルばらではないし、そもそも日本のマンガや小説や舞台の「作家が生み出した架空のキャラクタ」のうち、オスカルというのは最強キャラの一人なのではないかしら、なんて思う。これ以上アレンジや演出の必要のない完ぺきな完成形キャラ。
だから昭和の作家や演出家にも、このキャラの強さの前に手も足も出ないのかもしれない。独自の改変やアレンジが効かないキャラと作品といおうか。

その結果、いくら○○編とうたおうが、男装の麗人オスカルとその名シーンをを無視するわけにはいかない。幸か不幸かヅカ版ベルばらは舞台独自の名曲と名シーンも生んでいたから。
それで激しく名をあげちゃったから、あの歌あのシーンこそ舞台版(ヅカ版)ベルばらだと世間に知らしめてしまったから…。
結果的に、どれだけ時を経て色々アレンジしてみても、ベルばら舞台も、オスカルをメインにうたっていない○○編も、何度上演してもなんか変なことになってしまったのではないかしら、と思っている。逆にベルばらだからこそ許されるみたいな。ベルばら要素抜いたらアレ過ぎるとかいう謎評価の名作っていうナニソレ名作なの?珍作?
でも観ているとなんか「これはこれで…」となって何とも言えない満足感に包まれるから…高級珍味?

本気でフェルゼン編を描く気なら、

フェルゼンが割とチャラい(そつなくスマートな貴族な紳士)とか、妹といちゃこらするとか、そういう美味しい要素を捨てたヅカ版。

特に。

私の心をわしづかみにした、オスカル様が一人の貴族令嬢に戻って(これもまた、お姫様願望を抱く少女に刺さりまくった)ドレスをまとってフェルゼンと踊るあの一連の名シーンよ。なぜフェルゼン編でみられないのか。ここを描かないとかありえないわけで、本来は。フェルゼンをメインにするなら、よ。
ただヅカは、これをどーしても描けなかったわけよね。どーしても……。

なんか、これやってもおいしいと思うんだけれども…昭和の大人気スターが演じるオスカルの軍服を、白シャツに黒タイツを脱がすことは禁忌だったのでしょうね。

アントワネットさまの上に

そもそも原作フェルゼンはオスカルが自分のこと好いてたなんてまるで気が付かなくって、すごい土壇場で気が付くのよね。
で、彼はオスカルに告げるのよ(漫画ではモノローグだから告げたのか心の叫びだけだったのかあいまいなんだけど)。

『もしもはじめて会ったとき、おまえが女性だとわかっていたら…あるいはふたりのあいだはもっとちがったものになっていたかもしれない』
『しかし……、もうすでにわたしの一生はアントワネットさまの上にさだめられている』


オスカルにこれほどの絶望を与えた台詞はあったろうか。
彼女は元々望んで男装して騎士として生きたわけではない。その高潔な魂にそれは思いのほか似合ったかもしれないが、貴族令嬢としてお姫様のように育つ機会を奪われた乙女であったことを読者はみんな知っている。
ただの伯爵令嬢として出会っていたら、かなわぬ相手のアントワネットの手を取らず貴女を愛したかもしれない、フェルゼンはそうほのめかしたんだ。この最大級の無自覚口説き文句にオスカルがどれほど絶望を深めたろうか(この関係性のおかげでその後の、欲情するアンドレに告白される心の揺らぎのシーンが引き立つったらない)。


フェルゼンは、オスカル亡きあと、オスカルのパッパ、ジャルジェ将軍に対してオスカルのことを「生涯最高の友」と評している。

作品全体を通して、女性はか弱き守られるべき存在という立ち位置にいるこの時代のフランスの貴族の意識が描かれていて、フェルゼンの価値観も同様。ベルばらが面白いのは、生まれながらの身分で命の重さが決まるだけじゃなく、こと女たちのあわれな、そして華麗で苛烈な生きざまを宮廷を舞台にアントワネットが背負ってドラマにしてくれている点でもある。
この世の最高位みたいな、フランスの女王になってさえ、なにひとつ自由にならない、けれども最高級の絹にくるまれてすべてのものにかしずかれながらわが身を不幸と嘆く有様に、底辺からのし上がってきたジャンヌが唾を吐いてくるのだ。

ドラマの大きな流れのなかにおいてフェルゼンは、それらを眺めている外国人貴族でしかない。ちょっとだけ手を出すが、結局役には立たない。大きな時代のうねりを導くとか、流れを変えるとかいうこともしない。
原作でも舞台でも、オスカルそしてアンドレは名もなき一兵士と同じように死んでいく。物語はそこで終わらずにその後も描かれていく。生き残るフェルゼンはそれを眺めているわけだ。苦しい胸の内とかいっぱいあるし、いけいけフェルゼンとかあるけれども、何をどうしてもフェルゼンは、革命家のようにふるまうことはしない。
だから彼を主軸に物語を描こうとすると、動いているようで意外と動けていない厳しい立場の面が目立つ。咲ちゃんは役の解釈がとても深くって、フェルゼンとして舞台に佇んでいた。美しく哀れに。

この繊細なフェルゼン編において、ジャンヌを放り込んだのはなかなか冒険ではなかったか。オスカル編ならともかくよ。

うすうす気づいてたけど

そもそも多分、ヅカ版ベルばらを名作たらしめているのは、少女歌劇というスタイルとの相性の良さとかももちろんあるんだけれども、楽曲の強さが圧倒的。
今回の観劇でも、やっぱりどの曲もよくて、いつの間にか心の中で歌っちゃえるあの感じ。それがまた楽しくって。脚が2mくらいあって終演後に後ろの席のおばあちゃんが「あんなに足の長いフェルゼン様はじめてよ」て言ってたのがツボったんですけれども、いけいけフェルゼンのシーンとか、全体的に珍妙なところもある独特な演出とか、腰から下、前が締められない謎のコート(乗馬用かなアレ)の作りが気になって仕方ないフェルゼンの装いとかそういうの全部吹っ飛ばすわけよね。ちりばめられた名曲シーンで。
全部チャラ、まあいいかになる。

それの繰り返しなんだわ、ヅカ版ベルばらは。
じゃあいっそショー形式にしろよって思わなくもないんだが、全体を通してみても、紙芝居的様式美あふれるベルばらってもうすでに歌謡ショー的なのよ。
でも本当にショーにしちゃうと、たぶんなんか、あのカタルシスが得られないんだわ。

ジャンヌが明らかにしたもの

今回、宮廷でのワンシーン、貴族夫人たちがキャッキャしているところに、ツカツカ登場して観客席をの体温を2,3度上げた、ジャンヌ登場シーン。
あの音彩唯のジャンヌはもう、原作とアニメ版とで表現された要素すべてが詰め込まれていて、メイクも声も全部完璧で!

ただこの今回のジャンヌ、一度貴族の立場をつかんだ状態からいつの間にか没落して、そのどちらの場面でも言いたいことをわかりやすく言う。
そんなキャッチーすぎるナイスキャラだったものだから、フェルゼン編ではただでさえ描き切れていない貴族の世界と庶民の世界を渡り歩くオスカルが先にフランス宮廷の腐敗を嘆いているものの、その場面の印象がかすんでしまったようだし、
貴族の世界において、どうなろうともアントワネットに寄り添おうとするも帰国せざるを得ないフェルゼンの苦しみ(フェルゼンとて単なる不倫に悩んでいるだけじゃなく、フランス国情なども理解して憂慮しどおしだったろう)なども、少し弱くなったと思う。

のちに革命シーンにおいて、犯罪者の刻印を受けたジャンヌが出てきて見せ場があるが、これまた衛兵隊や物語上の平民版ロザリーの存在がちょっとかすむよね。特に平民代表いい子ちゃんのロザリーが。ロザリーって娘役の大事な役だけれども出番がね……。今回も後半から急に出たし。
ロザリーが実は貴族で、っていうエピソードも、ジャンヌを出したのに描く暇なく。
にしても、悪女ながら魅力的すぎた音彩ジャンヌ。

青いシャドウ

宝塚のメイクは真矢みき時代からベージュ系ナチュラル(ナチュラル…?)になっていき、青いシャドウをむかしのようにべっとり塗るようなメイクは見られなくなっていったが、いま千秋楽の配信をみながら確認してみると、朝美オスカルは青いシャドウをいれている。ジェローデルも(諏訪ジェローデル美人すぎる問題)。
ライト加減でわかりにくいがあがたアンドレも、青かグレーか、はいっているような?
なんとなく、この特別な公演に引き継がれる伝統を観ているようでたのしい(そういう意味じゃないのかもしれないけれど、そういう伝統があると信じたい)。

その人はばらの花のようだった

あらためて彩風咲奈への想いは書き留めたいけれど、こんなにスター卒業に泣いたのは久しぶりであった。それがベルばらであったことは、やっぱり、とてもとてもよかったのよ。

なんか色々あるんだけど全部ひっくるめて、よかったのよ。

偉大なり。ベルサイユのばら



にほんブログ村 演劇・ダンスブログ 宝塚歌劇団へ
にほんブログ村