隣のヅカは青い

ヅカファン歴は30年ほど。しかし観劇デビゥは2019年から。それほど遠い宝塚についてのブログです。

初めて経験する『声』

OGのなかには、これまでの間、ファンが「そこまでいわなくても」とちょっと引くほどの現役時代の生々しい内情に触れた話をエピソードとして披露した人もいた。そういうことには私もファンのはしくれとして想像できるし、なんだかんだ内情ばなしはきいてみたいしで、喜んじゃってた部分もある。

けれども、現役生徒が夢夢しい言動を封印し、一人の社会人として、人間として、こんなにも生々しく言葉を紡ぎ訴えたことがこれまであっただろうか。
たびたびこんなことがあったらそれこそ問題だが、こんなことは最初で最後にしなければならない。だからこそ、この重いことばを私はどう受け止めていくのがよいのか、考える。

時間

私も20年と少し前に、大事な人がある日突然亡くなってしまったという経験をしている。
ひと月経ってやっと息ができるような気持になり、1年経ってやっと、なにかすこし気持ちに区切りをつけられるという思いを持てるようになり、
そして今も一日たりとも忘れることはない。

1~2年は、涙腺がコントロールできずに大変困った。きちんと大事な友人などに故人のことを伝えたくても咽喉が詰まって話すことができずにいたし、とにかく、ふいに訪れる号泣はどうにもならなかったのを今もよく覚えている。

見える世界の違い

会見において代理人の「人が亡くなっていることについて許すという意味の『和解』はない」という言葉が大変重かった。

謝罪しない(訳ありでできない)組織と人というが、彼らの、そしてわれらファンにとってもの最善の道も次善の道も既に歌劇団側が断ってしまっており、時間が過ぎすぎることがあまりよくないことだと思いつつも、今回語られた内容はより、今まで以上に強い切迫した訴えのような、強い強い思いを感じた。

歌劇団側はいまだに、起こってしまった悲劇は本人の事情によるものという感覚があるのではないか疑ってしまう。

先月起こった漫画家さんのつらい事件もそうだけれど その日、その時、彼らの背を押してしまったものが何かはわからない。本人の思いは本人以外にはわからない。
しかし人間そもそも、がけっぷちに追い詰められてさえいなければ、何に背を押されても転ぶことはあっても闇に落ちることはない。
時間をかけてギリギリのところに追い詰めたものこそが、いま追及されている過重労働やパワハラモラハラや契約違反行為であって、何を問題視されているのか、漫画家さん事件のテレビ局側も歌劇団側も認識が甘いんじゃないかと、そのように見える。

拍手するもの

先日の星組観劇は最高に楽しかったし、テレビ番組から供給される各組の状況も嬉しく思う。
しかし、常に心にとげがささっている。

当事者の心を思うと、やりきれないのも確かだ。

拍手していていいのだろうか、とまたそのことを思ってしまう。

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