隣のヅカは青い

ヅカファン歴は30年ほど。しかし観劇デビゥは2019年から。それほど遠い宝塚についてのブログです。

イメージの具現化を体験する。東宝エリザ観劇② 明日海りおのシシィ

観劇中に何度か嘆息してしまうくらい、あらためてこの「エリザベート」ってよくできたミュージカルだなぁ。
全然飽きないし、よどみなく過不足なく歌うし。話もテーマもドラマチックで普遍的で、愛も死も永遠に語れる題材だし。

何十年もこすってもこすっても古びない、誰が演じても面白い名作ミュージカルであり名曲ぞろいのミュージカル。
日本もこういうオリジナルを輸出したいでしょうねぇ。

明日海りおのシシィ

まず、注目した主演のエリザベート、タイトルロールってやつだ。それを明日海りおが演じる。

私にとって明日海りおは、歌劇団退団後、しばらく出がらしみたいになってあんまやる気も残ってなかったんじゃないか、くらいに勝手に思ってた。それくらい彼女の魅力は男役にはまってたから。ファンの熱もすごかった印象が強すぎて。

その後舞台やちょっと映像やの仕事をやっているらしい情報をみては「あ、活動する気あるんだな、もうあんまり出てこないのかと思った」くらいに、これまた勝手に思ってた。それくらい私のなかの明日海りおは究極マイペースキャラだと思ってたから(完全に偏見である)。

で、よくよく考えたら、そもそもほとんど知らない役者さんなわけで、どこからこれらの偏見が生まれたのかしら?て思い返してみると、顔…なんだわな。
非日常的な存在過ぎるというのか。そしてこの顔が今回いかに素晴らしかったかを痛感する。


まず一幕。誰もが知る少女時代のシシィ。
いい大人の演者がこれをどう演じるかが最初の難関だが、明日海シシィ(少女)は、終始、「明日海りおっぽい人が少女漫画のお人形みたいになんかそこにいた」感じ。
とっくに男役の殻を脱ぎ捨てて風化させた彼女は、おきれいなおねえさんから、さらに、どうみても少女で、お人形になっていた。ヅカファンが娘役さんを褒めるとき風にいうと、メイクうまい!カツラ似合う!て感じ。

演出の意図ということがよくよく理解できるんだけれども、1幕のシシィって実際にお人形なんですね。少女時代の彼女のいう「自由」って、なんの義務も背負わずに大好きなパパと野山を駆け回ったり旅行したいっていうような、永遠の夏休みがしたいってレベル。それが皇太子との結婚でがんじがらめになる。

木から落ちて死にかけトートと出会い、そこから姉のお見合い→自分が結婚→想像より最悪な新婚生活からの~数年後についに自分を取り戻そうとするまでの1幕。実際に、トートやトートダンサーやらにポイポイ担がれてヒョイヒョイ抱えられて、本当にマリオネットのような扱いなんですねシシィ。その明日海シシィが本当に、美少女人形にしか見えない。

開幕から「そういやこの人、めちゃくちゃ芝居うまかったんだった」と思い出す私。正にとんでもない演技力であった。
最後の死の瞬間の表情もだけれど、すべての場面でハッとさせられるところがあったなぁ。角度、型みたいなものがいちいち完璧。

無礼にも勝手に心配していた歌唱については、歌唱そのものじゃないところで高音が枯れたような音を出したところがこの日2か所あったんだけれども、歌自体は見事。高音がとてもきれいだった。

年を重ねていくこと

くっきり見えるなぁ、と思ったのが、シシィ含め全員が場面ごとに年を取っていく点。時間経過は当然理解していたものの、なんかよりクリアにみえた。
子ルドルフが本当に子役がやる方がいいとはきいていたし、ウィーン版でも子役が演じていて、その小さなルドルフとトートの並びってなんかいいなあ(危うさがなお一層)て思っていたんだけれども、カッワイイー!!そして歌うま!!

ちょっとずつ髪が伸びて、しまいに年相応に結い上げてしまうシシィ。ちょっとずつもみあげが伸びて(いるようにみえた)しまいに立派な髭になるフランツ。
ハンガリーの革命家やらもみんな、ルドルフがやらかす頃には初登場場面とは違って髪色が老けていたりして。ゾフィーも、途中老けたなと思ったけれど、死の場面ではより年を取っていて、この二段階の老いにしびれた。
もちろん、トートとトートダンサーだけは全く変わらない。

エリザはどのバージョンを観ても、好きなミュージカルだけれど史実のエリザベートが好きではない(結構アレな人だと思っている)というか、尊敬できるところが少ないお姫様だっていう想いがあって。私は責務を果たさない王侯貴族はちょっと嫌なんで、だから、悲劇のヒロイン風のタカラヅカ版のヒロインとしてのシシィのキャラはあまり好きな方ではない。
が、この東宝版だと、1幕のマリオネットのようなシシィ。2幕に自分で自分を動かすことに目覚めたようなシシィ。
それでいて、自分が思っていた自由がなんなのか、ついにわからず、それが死なのかと揺らいでいくところもあったり、だとか、フランツとのやり取りやなんかで、すごく等身大のエリザベートとして何の嫌味もなくスッとはいってくる明日海シシィに、私の中のこの辺のモヤモヤを晴らしてもらったような気分。

ルドルフ

子ルドルフが「ねこをころしたよ」と歌いながら、銃を虚空に向けた。古川トートは無反応でただ子ルドルフを見つめていた。演者によって違うよなって場面だけれども、よかったですねぇ。ああ、これなんだと。
ルドルフがでっかくなって、この日は伊藤あさひさん。目がでっかくって。いいルドルフでしたわ。歌ウマいし危うさというか、常に腰がひけてるというか、お前マジわかってんのか?感がずっとあって。
パパの政治方針とは違う方向にひかれていって、ナチスドイツの波にのまれる様子を象徴するかのような、でかいカギ十字の旗が舞台上に広がって、それがスッとひかれると、キメポーズのトートがおる。

この東宝版のカギ十字の旗が出てくる演出って昔から賛否あったような気がするし、タカラヅカではここまでドーンと見なかったように思うが、これ東宝オリジナルなのね。
ヨーロッパではナチスドイツを象徴する敬礼や旗は法律で使用禁止されている。でも歴史背景を描きたい舞台製作陣は使いたいと思うこともあるだろう。日本は制約がないので、本来、本家がやりたかったことができているともいえる。おかげで、あの赤い旗にのみこまれるようなルドルフと、その裏にいたトート、そして死というものがとてもとてもすとんと落ちてきた。今もこのシーンははっきりと思い出せる。

一幕と二幕

小娘時代からスタートするシシィだから、役者は後々のためにも、序盤とにかく声を甲高く発生せざるを得ない。
明日海シシィの冒頭は声の不自然さはなかった。存在の非実在性はあった。お人形過ぎる…。

結婚し、旦那に愛想が尽きて、旅しまくり…と、話が進むごとに年齢を重ねていくので、声が徐々に落ち着いたものになっていく。低音までいかないものの、後半になっていくと、私が知っている明日海りおの声色も時々聴こえてきたので「ああ、やっぱりこの人明日海りおだったんだなぁ」なんて思い出した。
目のまえのきれいなシシィは本当にどの角度も美しすぎて、かつ、役者の顔がみえないくらい舞台には明日海りおのつくったシシィしかいない。だから、退団公演を生観劇して以降、ひさしぶりに生でみる明日海りおだったはずだが、「明日海りおっぽいなにか」がいるという感じがずっとぬぐえなかった。

本当に、本当にこの人は芝居が上手いのだ。

いろんなシーンが腑に落ちる

今回、楽しみだった涼風ゾフィー。第一声がいきなり強すぎてびっくりしたんだけれども、観劇後に確認すると、ゾフィーって息子フランツが結婚した当時、49歳頃。
いろいろあって国の政治にがっつりかかわっていた女傑状態だったんでこの強さか。なるほど~。
皇后という仕事の大先輩で現役バリバリの姑目線からみてみれば、シシィってお妃教育も不真面目だった16歳。ゾフィー自身ももとは絶世の美女だったから、女の美醜に敏感なシシィからしたら、初対面からライバル視とか、同族嫌悪くらいあったかもしれないねぇ。

涼風ゾフィーは最晩年まで強く、そして揺らがない人物に見えた。息子にきついこと言われたシーンで揺らいだ姿、そして死の場面は重要だと思った。亡くなる場面がカットされたヅカ版はもったいないことをした。こうしてあらためてみるととてもとても大きな役。
マダムヴォルフのシーンにいくときの、長年丁々発止やってきたんであろう国の重鎮のメンズたちとの談合シーンも、涼風ゾフィーはなんというか鷹揚な感じでいやらしさがなくってよかった。息子に娼婦けしかけるとか、痛いもんね…。

劇中、シシィが旅をしまくる、あの速足移動のシーンの演出はヅカ版の方が好きかな。チャカチャカ歩いてちょっと面白い。
しかし、物理的に旅をすることが彼女の望んだ自由を体現していることならばもう少し楽し気であってもいいはずだ。全然楽しげじゃないんだから、やっぱり彼女の自由とやらは彼女のもとにないのだということが伝わってくる。
旅装ぽいドレス姿も、精神病院の慰問シーンも、喪服姿も、どれもきりっとウエストが細くって、シシィ役の説得力があった。

実際観てみると、YouTubeで公開されているゲネプロ映像より段違いに全員うまくていい。

相性のよさ

他の組み合わせはなにひとつみていないのだから、実際は知らないんだけれども、「古川トートと明日海シシィの組み合わせ最高!相性最高!!」て思っちゃった。
明日海シシィは外国人にしかみえないし、古川トートはこの世のものではない。

特にこの、古川雄大氏のトートが、私にとっては非常に大きな衝撃であった。




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