突然舞台に存在していて、そして気が付くと近くにいて、ハッとしたらほぼ目の前に直立していて。
音なく目の前を横切っていく古川トートのあの長ランみたいな長いお衣装の裾がファサアと私の膝を撫でていった。
どこかでルキーニが吠えているんだけれども、トートの性質は「静」なんだな、と頭の片隅で思ったと思うのだけれど、瞳孔が開きっぱなしだったのか私の記憶はどんどん曖昧に。
案外細い指先と、黒い爪、ごろりとした指輪の手がすぐそこにあったのは思い出せる。
とにかく、不思議体験でしたよ。
古川トート
出はじめにすごいインパクトがあったとかそういうことではない。
ただ、スーと現れたと思ったら、全編通してぬるぬる動くぞこいつというか、質量があるようなないようなな感じだった。死は音もなく気が付くと隣に寄り添っている てのを見てしまったような。
トートダンサーが1幕は特に派手に踊りまくる。
このトートダンサーってやつは、映像でのヅカ版エリザ視聴しているだけだと存在感が希薄(カメラの都合上見づらい)で、本当に影のようにあちこちにいっぱいいるし結構大活躍するものの、カメラワークがあまり熱心に黒い影のようなトートダンサーをみせてくれないので、全体を通してちゃんとみられたのはほんとうに初かもしれない。
そのトートダンサーたちは、全員スッとした糸目が似合うメイクとヘアで、蛇っぽいのね。露出が高そうにみえて、おなかも、へそ部分は素肌で、脇から背中を覆うタトゥー肌着着てるのがわかった。
お尻が小さくて締まったタイプの役者がそろってるんだけど、あんな腹部だしてピタピタ皮パンツ衣装で基本的に地べたに這いつくばるような姿勢ばかりなので、おなかがぽよんとしてるのがわかるの。そこばっかり見ちゃった。決してふとっているんではない。むしろ締まっているんだけどね。タカラヅカじゃぜったいみれないやつ~とばかりにトートダンサーのおなかめっちゃ見てた私。かわゆ…
でそんな蛇のようなトートダンサーたちと古川トートは作画が完全一致していて、ちゃんとこのトートの一部のような、分身のような、そんな感じがした。
トートが独りって感じじゃなく、あの影のような眷属のようなトートダンサーはちゃんとトートの一部であるというか、な感じがすごくすごくした。
古川トート、歌も声量もいいが、走らないしアレンジしまくらない。己の個性みたいなのや色気を押してこない古川トートはかえってとてもすごくトートで、みているうちに
「ああ、私の中のトートが具現化している」
と思うに至るほどだった。
これはなんだ?と思ったとき
圧巻の一幕ラストは、ゲネプロ映像と違って、古川トートは真ん中でドーンとしているエリザベート後方で、とんでもなく不安定な立ち位置にて存在しているんだけれども、これがすごくその存在とマッチしていてすごい演出だと思った。
その後休憩時に、ロビーで、古川氏に詳しそうなファンの方々が「相変わらず古川トートってきもくて最高」みたいな絶賛をしていて、アッとなる私。
なんかぬるぬるキモイ、カッコいいし美しいけどキモイ感じはどうやら古川トートを絶賛する際にどうしても出てしまうキーワードとして正解の模様。その後SNSをみたけれどもやっぱり「ぬるぬるしてて最高」みたいな褒め言葉を見つける。そう、そうなのね。私が観て感じたのは間違いないのね。
キモイ(※大絶賛大褒め言葉)といえば
フランツを演じた田代万里生氏。こちらは私にとってテレビでおなじみ。井上芳雄氏のことが大好きな人だっけ、とか思ったのは一瞬で、すっごい上手い!なんていい声。
このフランツが「フランス案件とかマジしんどい、今夜シシィに癒されたい」てドア越しにやってきたとき、明日海シシィはなんかすごい顔して紙にアレコレ書き連ねています。
このシーン。
これまでは、シシィがプライド高いなーめんどい女だなー、結婚して子供ができるとみんな女ってこうなるんかなーくらいに観ていたんだけれども、今回は違った。
結婚して数年、旦那に愛想が尽きて姑も嫌だし子供のことで命名権すら取られて本当にうんざりとしか言えない結婚生活となってしまった、その結婚生活数年目にして、夫が今夜一緒にって言ってくるのマジ無理っていう明日海シシィに完全に共感した。マジ無理な田代フランツだった。
名曲、夜のボート。ルドルフの死後、喪服でさまようシシィと旅先の湖畔で再会するフランツ。
北翔海莉のフランツが大好きで、北翔海莉版だとこの再会場面の歌でフランツに同情しちゃってしちゃって切ないなあなんて思ったんだけれど、東宝エリザの明日海シシィと田代フランツで観ると、すっごいフランツは愛している愛しているって歌っているのに明日海シシィは「無理」って言っているのが余計クリアにみえちゃって。
男女で演じるとの印象の違いも相まって、ああ、このシーンのシシィ、本当に無理なんだなあって。
ここまで男に言わせてるのを拒否って相当だと思いますけどね。哀しい。
医者に扮するトートのシーン
やっぱりこのシーン。唯一、トートからオス味がにじむ謎のシーンと思う。
タカラヅカ版のトートとシシィは全体的に恋愛色がちょっと出てくると思う。死という意味以外でも愛を見出すような。そんなトートがここでは愛するシシィに死を突き付けるように、ぐいぐい迫ってくるシーンで、タカラヅカ版と東宝版ではガラリと意味が変わっているように見えた。真逆くらい。
ヅカ版が、愛する人に死を突き付けているように見えるとするなら、東宝版は死が愛を突き付けてくる感じ、といおうか。
私がこの日観た東宝エリザでは、男女の性愛はトートとシシィの間にみじんもない。振りがどれだけ艶っぽくても。
トート(死)が、シシィのイマジナリーフレンドだとすると、あんな異形のキモくて変でおそろしいもの(※褒めてます)思いついちゃったんだシシィ?ってなるけれども、この話のトートはただの妄想ではない。そこにある死である。
シシィに残酷な、そして彼女の残り人生の方向性を決定づけるような余計な情報を与えたトート。おぞましい病気をうつされてマジ無理と絶望と怒りに震えるシシィに、バッとマントを脱ぎ捨てて、やけに胸元がはだけたトートがぐわっと襲い掛かるように顕現するこのシーン。震えた。いろんな意味で最高過ぎた…。
色っぽい振りもあるのに、余計な性愛のにおいを一切させない二人の掛け合いは見事だった。この物語に「恋」はないし二人の間にそれはお呼びでないのだと私は確信した。
愛と死の輪舞
ヨーロッパでは死と踊りは切っても切れない。ペストの流行があったから。私はこれをハーメルンの笛吹きの研究書で知った。学生時代のこと。懐かしい。
死の病、死というものと踊りや音楽が紐づくのがヨーロッパ。興味深い。
エリザの解説ものを読んだときに、このことにも触れられていて、「だから、死をいざなうトートは一緒に踊ろうというけれども、「私が踊る時」で、それは自分が選ぶとシシィは歌う」みたいな内容で、なるほど、「私が踊る時」というのは、『踊る時は好きな時に好きな音楽で好きに踊るわよ』というような歌だけれども、この「踊る」はまんま「死ぬ」と言い換えても通じそうな歌なんですね。
トートにとってシシィが自分抜きで死ぬなんて冗談じゃない。だから「私が踊る時」の、振られてるトートってのはちょっと余裕がないんですかね。
一方で「愛と死の輪舞」は、トートのラブソングのような歌。
キャラとしては冷徹で傲慢そうなのに、古川トートが歌うこうした歌はすべて、なんていうのか、きれいだった。
余計な思いは削ぎ落しているというのか。純粋で。水とか空気とかみたいな存在だったかなぁ…。今思い返しても、不思議な存在だった。
ひょっこりトート
古川トートは舞台上、あちこちでひょこっと、ぬるっと出てくる。これが、その場にフッと現れたようにしかみえないので、人外さが増す。
あの、ルドルフの棺を模したところからにゅっと出てくるの最高でしたわ!!!アー好き!!!て完堕ちしましたわ。
古川トートはまた、背が高くて足が長い!ブーツ効果も相まって、本当に思い描く理想のまんますぎた。
それがあちこちからひょっこりはんだからねぇ。スキ…。
カーテンコールのお約束
シシィが刺され本当の死を迎えるときのトートは、幸せそうでしたねぇ。変な表現だけど。ウッキウキだった。
明日海エリザの死の様子に見入ってたので細かく覚えていないんだけれども、周辺バッサバッサとおりましたね。でっかい虫か。
終演で、カーテンコール。最後のアンコールでエリザ役と二人だけでこたえるのも、ヒューヒューもっと言ってよのあおりもお約束なのかな?
スタオベだった。
エリザ観劇。まだ感想あるのにトートで4000字。