そうそう。
いいなぁ、と思った場面のひとつで、わすれちゃいけない、パレロワイヤル、広場の女たちのこと。
今回、小桜ほのかちゃん演じるソレーヌに感動したけれども、この場面前後で登場していたほかの娼婦たちもすっごくよかった。
みんな雰囲気があって。
これ絶対書き留めておこうと思ったのに忘れていた…。
ソレーヌの場面
2015年月組版を見返してみたら、このときは「花陽みら」「晴音アキ」の役替わりだった。私が見返した東京千秋楽の映像は花陽みらさん版。
カメラワークの都合上もあったと思うけれど、劇場で観た今回の小桜ほのかちゃんの激アツ場面よりも少し、ライトにソフトな演出だったように感じた。まあ、生の迫力の差、だったかもしれないが。
私はこの場面での、歴史の節目に生きる女たちの現実を歌う場面ってのは、全世界いつの時代でも「受ける」よなって、そう思う。人間なんだかんだいって、貧しい田舎の少女が大都会に出てきて娼婦に身を落とすっていう展開やそれに類するエピソードが物語に含まれていることを望んでいるように思う。
ロナンが女だったら、ソレーヌと同じことになっていたはず。何も持たずにただ怒りに突き動かされるようにパリに出てきて、でも何にも持ってなくて。
ロナンが男だったからデムーランもロベスピエールも彼に親切にしたわけでしょ。君たちは同じ人間だよと上から目線で声をかけられたのは、ロナンが貧しい青年だったからこそ。出会い方が一緒であってももしロナンが女だったら、そのうちデムーランかロベスピエールの情婦みたいなことになっていたかもしれない。どのみちロナンの貞操は明日のパンとおんなじくらいの値打ちであり、なんとか自分の力で生きるために娼婦になることもかまわない、と思いきっていたんじゃなかろうか。
で、ソレーヌはまさにそういう存在で、彼女が出会ったデムーランたちの仲間のダントンと恋仲になるわけで…。ロナンの女版なのよね。やっぱり。
そんなソレーヌ。小桜ほのかちゃんのソロはしびれたが、彼女と同じ立場であり、名もなき春を売る女たちとしてパレロワイヤルの場面で舞台にいる女たちの芝居が、すっごいすっごいよかった。きれいだったし容赦なかったし。
ロベスピエールのボディパーカッション
見せ場の一つである、2幕の「誰の為に踊らされているのか?」の名シーン。本当にかっこいいシーン。やっぱり衝撃を受けた2015年月組版、珠城りょう版が一番だと思っているが。
だけれど今回観た極美ロベスピエールの同シーンは想像以上だった。歌もいいし美しくとにかく見映えのする身体で、ここぞとばかりにこのシーンに注力しているのが見て取れた。
まあこのシーンの始まりの、ヨシ!感が見えすぎたのはお芝居という意味ではいけなかったのかもしれないが、この場面はどう考えても、役を観る場面ではなく役者を観る場面であるから、これでいいはず。
全体的な情緒は珠城りょうはやっぱりよかったな、と思う一方で、この場面が全体的にきれいにおさまっている整っている感は今回の星組の方が高いと思った。
ただ、見せ場のシーンでございます感がやっぱりちょっと余計だったな。それがないから、急に訪れるからこその衝撃感動シーンであろうと思う。何度も観ちゃっているなれた観客、スレてしまったこちらが悪いよね。
ところで、礼真琴が思い出せない
1789生観劇から一夜あけ、さらにもう一夜明けて…はて。礼真琴のロナンがどんなであったか、イマイチ思い出せない。彼女の歌に何度か震えたことは覚えている。銀橋あんまり使われないな~原作舞台も東宝もないもんな~銀橋~って観劇中に感じてたことも思い出した。
けれど、どんなロナンだったっけ。何回か上着着替えてたなってのは、思い出せるが…顔が…姿が…思い出せない。
これはおそらく、観劇中、礼真琴のロナンを観る私の目の瞳孔が開いていたんだろう。好きな人の顔が思い出せない現象が発動してしまった。
興奮して瞳孔が開いちゃうと、記憶に残りにくい・思い出せなくなるというやつが発動してしまった。もったいない。目を細めて観るべきであった。