話題作、龍の宮物語を観ました。
改めてポスターみると、別人かよ、てくらい顔が違いますよね。
毎回思っているのだけれど、
公演ポスター、
ファン=映っているジェンヌを観ている
劇団=公演のイメージを伝えるために、ジェンヌは素材扱い
この差があるよね。ファンは毎回ジェンヌさんの修正ぶりに注目するけれども、そもそも劇団側は、ポスター絵を作っているくらいには割り切っているような。
多くの人が抱いた感想
スカステでようやく観られた今作、驚きと感動がありました。
観劇された人の感想をネットであれこれ見てみたところ、皆さん大絶賛。
キャストよし、音楽よし、物語よし、演出よし そして「宝塚っぽくない」「外部公演でもいけそう」という感想もチラホラ。
私も同じように思いました。というのも、キャストや演出は「タカラヅカ」でしたが、脚本は実になじみのあるものだったからです。
浦島伝説と夜叉が池と小劇場と
あんまり混じる話か、というとそうでもないはずですがいいリミックス。
誰もが何となく知っているこの主題であったこと、なんかこういうテイストあるよね、という懐かしい、昔ばなしの導入のような「あるある」感の演出が、この芝居を「外部公演でもありかも」「外部公演にありそう」と思わせてくれた主な理由かな、と感じました。
私は普段、役者のお友達のかかわる小劇場系のお芝居をよく観るのですが、そういう雰囲気ありましたね。
宝塚と東京の大劇場は2,500超。歌舞伎座よりもちょっと大きい、国立劇場よりもちょっと大きいのではないか。超・大劇場です。
だから500ちょい、というのは確かにタカラヅカからしたら小劇場でしょう。
そのサイズをしっかり意識した演劇だったなあ、龍の宮物語(やっと感想)。
ただ一般的な外部公演とはレベルが違う点がありました。「音楽のクオリティ」「衣装の豪華さ」です。
実は宝塚がいかに恵まれているかはこういう点だと思います。ひとは見た目が9割 というくらい印象を左右します。
小劇場ものは、舞台装置を、箱3つ4つとかで抽象的に表現する(せざるをえない)みたいなものがおおいですが、しみじみ宝塚の舞台は豪華!衣装や小道具はレベルが違いますね、見入ってしまいました。
浦島伝説も夜叉が池も実に魅力的な題材で、謎かけのような魅力があり、公演後いろいろなことを考えたい・語り合いたいと思わせてくれます。この芝居がいかによくできていても、2500席の前ではサイズが合わない。舞台と客席の距離感が近いバウらしい作品にみえました。バウホールでみたことないけど。。。
物語について※ネタバレあり
主人公の清彦は真面目な書生。彼は分別があり優しく、わきまえていて、だから主の娘である百合子に対しても、どうこうしようという気はなかったようです。
玉姫に対しても、ずっと「とまどい」があって、いつ惚れたのか……。それは、30年後だったのかなと思います。
大体、助けた娘(玉姫)に連れられて、異界に行ってからというもの、玉姫はずーっと恨みがましい目で見てきて塩対応。
しかし清彦には一切心当たりがない。事実彼は悪くない。
子供のころの記憶をあーだこーだいうのも、玉姫おとなげない。1000年怪異をやっていると、ああなるんですね。
この話が面白くなったのは、最後のシーンの余韻があってこそと感じました。
玉匣(たまくしげ)の中身が実に私好みだった!あれ以外の中身であったならば物語の余韻はまるで違うものになったろう。
古今東西、いろいろな物語があるけれども、私はいつでも、「まだこの先、短くない時間をひとり生きていかなくてはならない」というのがとってもたまらない気持ちになります。
玉姫の幸せそうな笑顔が、なお一層、清彦の最後の表情との対比が、胸にせまりました。
キャストについて
主演の瀬央ゆりあの代表作になる、というのはそうかもしれない。
彼が異界にわたりずっと不機嫌な玉姫に「あのぅ、私はあなたの機嫌を損ねるようなことをしてしまったでしょうか…」みたいなセリフのところ(台詞はうろ覚え)。
実にぐっときました。たぶんほぼ唯一の玉姫への口説き台詞。
あのエンディングでも彼は正気だったと思います。闇落ちできない清彦がますますかなしい。
玉姫役の有沙瞳は、みんなが判官びいきをしている実力派系の娘役。この作品はこの玉姫の演じ方でかなり印象が変わるかなあ、と思いました。有沙瞳の玉姫は竜神の妻にふさわしい気位の高さと、世間知らずの乙女のような表情とがたまにゆらいで、魅力的な勝気な女に仕上がっていましたが、全然違う玉姫像も想像できる役。今回のは有沙玉姫でしたね。
世界の狭すぎる哀れな魂でした。
作中のキャラたちのなかで、最も高感度の高かったキャラ、百合子
水乃ゆりちゃんはちょっといい娘役さんというイメージ。この百合子、世界観や清彦の性格を説明する、キーパーソンの一人でありました。もしこの「龍の宮物語」が全36話くらいの昭和昼ドラだったらば、清彦と百合子、はては山彦と百合子の母の…なんていう無間愛憎エピソードもあったかもしれないが、劇中の百合子はとてもいい女でしたねぇ。政略結婚どんとこい、で、書生たちと仲良くする振る舞いについても、自分をわかっていましたね。百合子から清彦への淡い想いみたいなものは描かれていないと感じたけれども、バイオリンの件は夫になる人の邪推だったのかしら。
書生たち
とっても雰囲気作ってくれていて、彼らのシーンは観ているだけで楽しくなりました。
龍の宮物語の雰囲気を醸してくれる重要なわき役たちだったなあ。
ウィキペディアさんによると、あらためて書生の意味は「主として明治・大正期に、他人の家に住み込みで雑用等を任される学生を意味する」とあります。
そして辞書で「書生」をひくと「書物を読むばかりで世間知らずの学者」とも。
彼らも、そして清彦も、「書生」でしたねぇ。
違和感の正体
この芝居、新派あたりでやったらもっと艶っぽく、もしかしたら脚本が生きたかもしれないなと思いました。
この舞台で一番タカラヅカっぽかったのは、お金のかかった衣装や小道具、そして舞台上にいるのがきれいな女たちだけという点で、タカラヅカの公演としては、フィナーレがなかったら外道であったかもしれないとさえ思います。
瀬央ゆりあが清彦にはまっていたから(あてがきだから当たり前だけれど)なおさら、見逃してしまいそうだけれども、タカラヅカっぽくないと感じる最大のポイントは、主演の、舞台の真ん中の清彦が受け身で流され辛抱強くて、彼の役回りも役を演じるせおっちも、この龍の宮物語のパーツの一つに徹しており、物語の主役は「龍の宮物語の主題」にあって、清彦も玉姫も主題を描くわき役のように、物語をしっかり見せてくれる構成になっていると感じさせた点にあると思います。
とりあえず主役を目立たせるヅカ構成ではなく、物語性・世界観を最重要視した、演劇根性丸出しの舞台であったので、舞台のクオリティが結果的にタカラヅカ性を後ろに引っ込めてしまいました。
フィナーレで全力で取り返してましたけれども、タカラヅカを愛する人はフィナーレあってよかった、と思うかもしれないけれど、あれは、「龍の宮物語」の余韻を「まあいっか、楽しかったハッピー!」ていうヅカ脳に戻してしまう罪深さ(悪い言葉で台無し感)があると思う(嫌いじゃないけども…)。
しかし、芝居本編の主題歌を即フィナーレでアレンジして踊ってみせるって、考えてみればとても贅沢というかすごいことと思う。
客が全員、異界に連れてこられたばかりの清彦ばりに酔わされて、「龍の宮物語ってなんだったっけ」と惑わされるエンディングとなっており、まあいいのかな、それで。
タカラヅカの方程式ではないものでつくられた、タカラヅカのバウ名作のひとつとなった舞台だと思います。