隣のヅカは青い

ヅカファン歴は30年ほど。しかし観劇デビゥは2019年から。それほど遠い宝塚についてのブログです。

望海風斗のSPEROを観た

三井住友カード貸切の回を観劇しました。

この枠でチケットが当たったのはほとんどはじめてじゃない?てくらいにまあ、私には当選確率が低いVISAの公演チケット抽選なんですが、発券してみてなんとびっくり、ほぼセンター位置の、前からわずか数列目。一応持って行ったオペラグラスは一度も使わず。めっちゃくちゃ近くて震えた。

観るまでのテンションは何故か低かった

だいもん…望海風斗は、私にとって特別なスターではあるものの、タカラジェンヌのトップスターとして(私にとって)とっても偉大かっつーとそうではなく。
ある時期は、まるで自分の子の欠点ばかり見てしまう親のように、彼女の舞台姿をみては足りないところを探すような目線で映像をみたりと、愛がこじれていたことも。
だいもんのトップスターとしての何かを探そうとするたびに、望海風斗自身がファンであったスターが彼女の資質とは逆のタイプの超キラキラ系だった大和悠河だったのがなんかもうめっちゃわかるというか。望海風斗自身の理想のスター像はスター望海風斗とちょっと違うらしいということをずっと考えては悶々としていました。勝手に。

SPEROは、配信で一度観ていたけれど、ラミンさん回。なんつーか何もかもが異常事態で色々戸惑いながら楽しんだ。あれから結構経って、ふたたびSPERO。
ずいぶん時間をかけて公演をしているんだなあ、なんてこともあまり知らずに、調べることもせず。
望海風斗という芸能人を今後どこまで追うかまだ何も考えてなかった自分には、このコンサートチケットはとても大事な機会になるなぁなんて思いながら、公演レビューなどもできるだけ見ずに、いざライブに参加しました。

最初の感想がそれだった

かぶりつきのような、舞台がすぐそこ、な席だったものだから、会場の雰囲気が逆にわからなくって、キョロキョロするものでなし、客席でどうしたらよいのか内心おどおどしながら開幕を迎えたら、下手からでてきたんですよ、ぬるっと。望海風斗が。
それを目にとめた最初の瞬間私が思ったことは
「(思ったより身長が)おおきい、(なのに顔が)ちっちゃい、(存在が)近い…(男役でも何かの役でもない)だいもんが近い!」

いやその後、客席に披露される二の腕とか背中とかでもわかる通り、とにかく細すぎて華奢で、タカラジェンヌの現役時代から筋肉が落ちて絶対痩せたというか肉質が変わったと思う。それが、私の席の位置からだと上からのライトが反射して、顔はヅカメイクでもなし、なんだか年相応のお綺麗な女性で。不思議な気持ちになってただただ見つめていた。

男役の仮面も、演ずる役柄の仮面もかぶっていない、タカラジェンヌでもない、ただの望海風斗として客前にでてくるとこんなにも華奢な女性なのかとしみじみ思った。
それが物理的距離が間近なものだから本当に不思議な感覚に陥った。そしてその全身から奏でられる歌声はどんどん変化していく。

歌と存在感はやっぱり圧倒的

その、下手からぬるっとでてきた望海風斗が歌い始めた瞬間から私は泣いていた。自分でもびっくりしたけれど、たぶん私は、あの瞬間をずっと待ち望んでいたのだと思う。
舞台にはかわいいダンサーやプロの男ダンサーや、パフォーマーがいたけれども、真ん中の望海風斗の真ん中力はとにかく圧倒的だった。そして、タカラヅカ内では決してスタイルがいい方とは思ってなかったけれど(宝塚の男役に最適な身体ではなかったの意味)、んまー、だいもんって、女性としてはめっちゃくちゃいいスタイル。
腰も細いのに胸がある!笑

ああ、なんていい女なんだろう!

後半に号泣した

セットリストなどもなにも確認してなかったので、「そばにいて」を聴けるとは思っていなかった。アレ?配信回で歌ってたっけ?思い出せない!
でも私、本当に何の心構えもしていなかったからこの大好きな曲、愛が過熱した引き金となったこの曲を聴けて、本当にぽろぽろ泣きどおしでした。涙とまらんかった。
ライブバージョンの歌声はよりドラマチックだった。布マスクと不織布マスク2重でつけていたのだけれども、びっちゃびちゃになった。

この楽曲以外も、生で、ライブで体感することによってあらためて望海風斗という人がすごいぞ、というのを実感した。
もやもや愛をこじらせていた自分などどこぞへ行き、私はアーティストとしてのこの人が好きなんだなあと、あらためてその舞台姿に惚れた。

いつか、を想像する

今回のコンサートでは、既成曲を歌い継いだ望海風斗。オリジナル曲はたしか1曲のみだったけれど、いつかすべて自分の曲を歌う日があるのかな?
でもだいもんの歌声には、いろんな名曲をカバーしてほしい欲がわく。

ぼんやり頭の片隅で思ったことに、タカラジェンヌOGの人生って大変だよなって。トップスターのように15年~20年在籍した場合、卒業後、その後の長い人生を食べていくためにもやりたいことをやるうえでも芸能活動を続ける場合は、卒業後の最初の数年を全力で働かなければその先に続かないので、結婚や出産をする時間がない。別にしなくたっていいんだけどしたいと思った時にできるもんでもなし。
元トップスターの非婚率がそれなりに高いのは、みんな働き者だからだよなぁ。

望海風斗のこの先は、私には想像もできないことだが、ミュージカルにも出演するようだしそれが魔女役という、主演とかヒロインとかでないのがまた技ありでいい。




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宙組を観て歌舞伎を観た9月

先日、宙組『『シャーロック・ホームズ-The Game Is Afoot!-』~サー・アーサー・コナン・ドイルの著したキャラクターに拠る~』『Délicieux(デリシュー)!-甘美なる巴里-』をようやく観劇。千秋楽のライブ配信は視聴できなかったので、1回きりの観劇となった。割と普通のことなのに、ヅカ生観劇に慣れてしまうと「1回だけ?」となってしまう不思議。

宙組だろうとどこだろうと

同伴者がいる観劇者はどこだってうるさい。まーうるさい。開演前の劇場内も普通にざわざわしていて、なんかもう無理なんだなと思った。
にわかに一つ、思っていたことがあるのだけれども、前も書いたかもしれないが、やっぱり一部の観客は「会話はお控えください」の意味が伝わってないのではないかということ。
「会話はお控えください」=「会話をやめてください」という意味だということは、学校の試験にも出るような日本語であり、はっきりと「やめろ」と言っている意味のアナウンスなのだけれども、ど~も、「控えてるわよ、だから静かにしゃべってるんじゃないの~」みたいな声がね。
冗談かと思ったけれども、控えてるからちょっとしかしゃべってないよ!て本気で勘違いしている輩を目撃してしまった以上、これは一定数、日本語力に問題がある層がいる気がしてならない。

そして今月歌舞伎座で、ああうまいなあ、と感動したことがあった。
歌舞伎座は今回2階席で観劇した。俯瞰で見下ろすことになる舞台正面に劇場スタッフが通路に立つ。そして宝塚歌劇のスタッフが持つようなあの注意事項を絵にしたパネルの、2~3まわりは大きな白いパネルを、2つに折りたたんだ状態で手にし、開演直前にさっと掲げる。2階席でも同様に、通路一番前のところにスタッフが並び、そこから1階席と同じタイミングでパネルを抱え上げると、スッと開いて大きなパネルに。
そして、前かがみにならないでね、喋らないでね、携帯電話きってね、という意味の注意をまるで台詞のように、一つの見世物のようにきっちりそろえてみせるから、自然と観客はそれに注意する。松竹の良い知恵だと思った。劇場スタッフの態度が美しいとこちらの背筋も伸びる。

ホームズとデリシュー感想

宙組の公演、SNSの反応は好評で、あの微妙なマカシャンペンライトの販売も、「ファンがデコる」という展開を迎えたことによって大成功に。
愛あるお客さんがきれいにデコって写真をアップするものだから、あの無垢なままだと卑猥にすら見えてくる不具合が私に発生した事をここに記しておく。

まずホームズは、実によくまとまっていた、見ごたえある舞台だったと思うけれど、無粋な私は途中飽きてしまい、女王陛下の前で狙撃、のあたりの場面ではちょっとウトウトしてしまった。
舞台装置、ステキなんだけど、そこまで鎖をモチーフにしなくても、とは思った。開幕時の夜のロンドンの街並を模した様子はとっても綺麗で、窓の明かりにワクワクした。

アイリーンのかつらはポスター観たときから感じていたけれど、生で観ても顔に対してちょっと大きくみえた。潤花の顔が小さいのかなんなのか、顔が埋没してしまう感じ。デザインはいいのに。

ヤードのメンバーや街の子供たちはもうちょっと観たかった。宙組は名前と顔が一致しない子も多くて、名前をあげることができないが、どの場面にもどのグループにも必ず1人は目立つ子がいるなぁと感じた。

あと、アイリーン演じる潤花はいいんだけれども、アイリーンの役柄がちょっと既視感。これアイリーンアドラーである必要ある?みたいな。
先日のホテルの作品となんか似通ったキャラにもみえた。もっと悪女寄りな、こうルパン三世の不二子じゃないけれども、愛嬌ある悪女キャラかと思っていたのに、悪い女感は出の場面のみで、男が放って置けない弱さを持つアイリーンアドラーであった。あとやっぱり、かつらもだけれど、ポスターでも着ていた黒っぽい衣装が重そうで、これまた中身が小さくみえてしまった。ドレス、ヒダ多すぎよ。

ホームズ演じるマカゼのせりふ回しは、マカゼ節。この人は滑舌が悪いようでそうでもないし歌は若手時代からものすごいレベルアップで、丁寧に歌いこなし、器用であり努力の人だなと思う。でも身体の構造上、独特の音が出るよねって感じ。芝居とショーだと、芝居の方がこの人はいい。

他キャストについて、
芝居の桜木みなとは無個性に感じる。真ん中を立てる芝居ともいえるが。一転ショーは、なんでも出来る人。おまけに客席への視線配りやアピールが丁寧で目立った。

加減のよさ、キャラとせりふ回しや声色がぴったりきていたのが芹香斗亜。私はこの人はもう旬を過ぎてしまったんじゃ、と数年前感じたこともあったけれども、とんでもない。今作ビカビカに輝いており「タカラヅカ版モリアーティ」は大成功と思う。
いい意味でキキちゃんぽさが消えてて、役として存在していた。

潤花はトップ娘役に相応しい。
若いんだから酷使するよお披露目だもんね感が強くて超がんばれ怪我に気をつけてと思った。
歌の、高音出すとき発声切り替えるあの感じはしんどいのかな?と感じた。何もかものびやかに豊かさを象徴できる人と思う。

衣装と印象

初日からチラリと話題になった、ショーのアダルトな場面。私の注意を引いたのはそこの演出の話ではなく潤花の衣装が、さくらちゃんのDSで使用された、あの赤い衣装だった件。

よりヘルシーな印象を与える潤花が着用してあのシーンで動くからこそ、いけないものをみさせられてるかのような、不健康なエロさが際立ったのが面白い。

コケティッシュな、蠱惑的な笑みもみせる美園さくらはむしろしっくり着こなし、セクシーであっても不健全的なエロさなんて意識させられなかったのに。
個性って大事なんだなと考えさせられた。

※どっちも好き

歌舞伎は四谷怪談

宙組を観た数日後、チケ難の9月歌舞伎第三部を観劇。
話題独占、二度と観られぬと思われる、仁左玉コンビの名作いいとこ取り上演で演目が四谷怪談だもの、絶対に観ておかねばと思った。
これが、仁左衛門演じる伊右衛門の色悪ぶりが史上最高、過去最高といえる、凄まじい出来であった。

この人は77歳。だか舞台姿は常に今がいちばん美しいいい男なのである。
10年くらい前に、新橋演舞場の観劇に早めに向かったところ、楽屋口で、真っ白な大きめの手紙を握りしめて入り待ちをするマダムがいて、彼女の手のなかのそのお手紙の宛名には、とっても綺麗な字で大きく、片岡仁左衛門様とあったのが遠くからでもはっきり読めた。
それを見てこちらもときめいたのを思い出す。

極付(きわめつき)をみせる歌舞伎

いま歌舞伎は、本来、昼夜二部制であったのを三部制にしている。この日の三部は18時開演で20時10分が閉幕だったかな、休憩20分で、休憩後は約20分で、休憩前に1時間以上やって、休憩挟んで20分足らずもう1シーンみせて終わり。休憩後の幕が短時間で終わるのは歌舞伎あるある。
2階一等席で観たので15000円のチケット代。
1階席が埋まってたのでしぶしぶ2階だったし、実際に観る芝居は2時間ない。お高いのである。

が、観たあとではちっとも高いとは思わなかった。お岩を演じる玉三郎も、あの、下半身どこに埋まってんだろっていう、ペタッと座るあの様子、やつれていても武士の娘らしい立姿に、もう、いま目を瞑ると蘇ってくる凄惨な死に際…。

歌舞伎の生き残りも掛かっている舞台。
夢夢しい世界を繰り広げる宝塚歌劇とは種類の異なる世界だが、どちらにも、明日の幕も今日と同じく開くように皆、真剣であった。




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静かにハイスピードで新陳代謝するタカラヅカ

8月、月組千秋楽以降入院していたので、ちょっと宝塚歌劇、観劇もお休みしていた。
元々予定していた、ちょっと炎症を起こしていたできもものを取る ていうような手術だったので私の入院自体は穏やかかつ平和なものだったけれども、大部屋あるあるというか、自分以外の患者さんがみんなより重い病気を患っているような感じがしてなんだか、何でも当たり前に思ってはいけないよな、などと、思ったり。

そうこうしているうちに、続々と新陳代謝が進んでいく歌劇団の顔ぶれ。
10月からは轟悠もいない。後々、大きく変化があった年として思い出されるのではないだろうか、宝塚歌劇の2020~2021。

花組、いよいよ本領発揮

制作発表をスカステでみた。美の暴力っていえばいいのかしら…。
私は、雪組若手時代から永久輝せあが気になっていた。花組へ行ってもなかなか目立つ役どころってほどでもなかったので、ここらでなにかで主演をやってほしいとも思う。
柚香光は誰が相手でもかまわないって感じのひと(に見える)ので、星風まどかがリミッター解除したような爆発をしてくれないかと思う。彼女はもう何をやったっていいと思う。
今回また中堅~ベテランが抜ける。当たり前のことではあるものの、中堅娘役って本当に難しいところなのかなあとも思う。先日観劇したとき、「花組の娘役ってこんなにかわいいのか!」とびっくりしたので、先輩娘役たちが元気な組でいて欲しいのだけれども。
今後の花組は、れいまどコンビをみて、まどかちゃんのキラキラをみて、永久輝せあはどこにいるのかをチェックするようになるだろうな、私。

月組、新体制楽しみだが

月城かなとは結構まっさらな印象が好印象。スカステを観る限り、ありちゃん(暁千星)に対するなんかバブみある態度とゆの(風間柚乃)に対するオラ味とが面白く、めちゃくちゃキレイな顔をしていながらも、「第二の、普通のサラリーマンができるトップスター」になれるのではとも思う。それがいいのかわからんけど…。
川霧は何事もなければ観られるはずなので、どうなるのか楽しみ。ここから月組が変なことでざわつかない組になればいい。でも昔っから月組って、「役者」が集まるからこそ「変」なんじゃないかとも思う。良くも悪くも。舞台がいいからいいんだ。
今後の月組は、トップが変わってどう変わるのかを確認したいし、二番手、3番目4番目あたりの序列を見守りたい。そして今後の娘役戦線についても要注目かなあ。

雪組はとりあえずシティハンター
ある意味反応が分かれている、温度感も二分しているようなシティハンターが好評上演中の雪組
シティハンターという演目を上演してくれるおかげで、今回私は新規の友人を観劇に誘うことができた。といってもコロナ禍なのでキャッキャ観に行くわけにもいかないのだけれど。
この演目がいつものタカラヅカぽくないということで出来は関係なく冷めているファンもいる様子。咲奈ちゃんは満を持してのトップ就任、きわちゃんは、棚ぼたなの?なんなのかよくわかんないけどよかったね就任。ふたりの相性はよいみたいなので何より。舞台上でめっちゃ発光する咲奈ちゃんがトップでまたどうなったのか確認しにいかないといけない。
あとここにソラカズキが合流するとなると、これは観なければと思う。
あとは~、今のところ私は、なぜ縣千が抜擢されているのか、まだ全然、彼女の魅力に気が付いていないので、そこも観てみなくてはと思う。ほんものの魔法使の際の犬の役では私に一切刺さらなかったので…(演目が苦手てのもあったけど…)。

星組は琴ちゃんと愛ちゃんの魅力バトル

愛月ひかるがこんなにも人気をつけて退団するとは、誰も思っていなかったろうなあ。
星組配属になった時点で予感はしていたけれども、非常に寂しくなる。愛月ひかるのスター性がギラギラになったのも、タイプの違う礼真琴舞空瞳コンビとの対比があってこそだったと私は感じている。スカステで愛月ひかるが語る、彼女の思うあるべき男役像の話はどれもうんうんそうだよねそれだよねって頷くことも多かった。カラーの違うトップと二番手というのはきっと、両方にとってよかったはず。愛ちゃん最後の舞台姿を見届けたいと思うし、ほんとスター性のことなる礼真琴との絡みをじっくり、見納めたい。
あとこれからの星組でみておきたいのが極美 慎。あの顔あの笑顔であの高身長。やっべービジュアルだなあといつも思っていたし、彼女に辛口な愛月ひかるの様子がすごくよくて、注目の子、ではあるのだけれども舞台姿で印象に残ったことがない。見逃しているみたいなのでチェックしたい。

宙組、どうなるのかしら宙組

宙組は、潤花ひとりぶっこんだところでマンネリ感は否めず。マカゼと桜木がコンビを組み芹香が敵側に回る構図も、なんか既視感バリバリで…。ソラカズキが抜けるの寂しい。けれどもスター大渋滞なので仕方なし。娘役がみんないいのは夢千鳥でもよくわかったし、宙組観に行くときは娘役ももっと活躍をみたい。あとルイマキセの歌をもっとききたい。
キキちゃんは一時期、ああもうこれからトップになるぞっていうギラ付きみたいなものがみえなくなってもう、別格路線のまま、スターの旬は過ぎていくのかなって感じたことがあった。
誠に勝手なことにそんな風に彼女の舞台をみて、プロ脇役にしかみえず、それはトップ路線を戦うものとしては違うのかなあ、仕方ないよね2番手長いし、なんて思っていた。勝手な感想である。
けれども、アナスタシアの東京公演最後の方だったかなあ、いやいや、全然そんな、そんなことないわ眩しいわと思いなおし…。ここ最近はもっと充実感が増しているようにみえるので、何かこう、この先ぼちぼち、あるのかな、動きが、なんて思わされる。全部気のせいかもしれませんけど!もうここは何でも来いってなトップなので、ガチャ回してんな―って感じで観たい。


この先はやっぱり2025年の体制に向けてガラッと、また変わっていくんでしょうねえ。今のメンバーがどこの組もいい感じに輝いているので、それがまた入れ替わっていくんだって思うとすでに寂しい。やっぱりタカラジェンヌは、タカラジェンヌでいるときが一番かがやいている。


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「かげきしょうじょ!」と「かげきしょうじょ!!」と「ライジング!」

今年、アニメ化もされてすっかり認知度のあがった「かげきしょうじょ!!」
私はこの漫画の黎明期からのファンであった。ただ最近はまったく推していない。

先が長そうなので…

こりゃあ、コミックス40巻越えもあるであろう、と感じて、「かげきしょうじょ!!」の連載を追いかけるのはちょっとやめてしまった。面白いけどね!
そんなに長いマンガを購入したくない、何年も追いたくない、できれば20巻以内で何とかしてほしい というのが私のわがままである。これはすべてのマンガに対してこう思う。
しかしいま「かげきしょうじょ!!」が連載しているのは、人気作品をとにかく長くかかせるでおなじみの白泉社……。
入団か初舞台くらいまでで終わるのかな?て気もしなくもないけど、いろんなキャラのエピソードが豊富な感じのマンガなわりに、主軸となるストーリーは、あらかじめ見えている一本道。
卒業、入団。入団しても宝塚歌劇をおおいにモデルにしている分、ヒロインが1年目で大きな抜擢を受けるとか、オーディションで勝ち抜くとかそういうマンガにはならないわけで、
そうすると、研○としてやっていくコツコツとした日々のなかでの群像劇(登場人物一人一人にスポットをあてていき全体の物語が展開)をこのままやり続けるのかしら?
どこで終わるのか、が結構難しいマンガなのでは、と思う。

ちなみに、群像劇のことを「グランドホテル方式」ともいうんだよね。あのグラホのことです。おもしろい。

「かげきしょうじょ!」との出会い

知人の漫画家さんがジャンプ系で連載していたため、その編集さんとなんどかご一緒することがあった。その方が「ジャンプ改(かい)」という雑誌に関わる人だった。
モダンで楽しい雑誌で、私は結構好きで、珍しくもずっと購読していた。そのなかでも看板になるほど面白さをどんどん発揮していって、誰の目にも力が有り余っているマンガにみえたのがこの「かげきしょうじょ!」であったと思う。
この「ジャンプ改」という雑誌はあまり長続きせず休刊となってしまったが、そこで連載していたマンガの多くは、連載終了ではなく、連載を引き継ぐ受け皿となる雑誌へ引越ししていった。
編集部の良心かな。
そして「かげきしょうじょ!」は、集英社の革新的ジャンプ系雑誌から、少女漫画の花、白泉社へもらわれていった。
実際、当時連載を読んでいても雑誌がマイナー過ぎて話題にならないだけで、「これ白泉社あたりにいったらめっちゃ人気でそう」て自分でも思っていた。案の定であった。

ジャンプ改連載分が、「シーズンゼロ」としてコミックスになっている分。白泉社での連載から1巻~で続いている。
シーズンゼロ分は、ヒロインのひとり、元集団アイドル出身のクールな女の子のエピソード(あんまり明るくない話)がメインになっている。読んでも読まなくてもいいけれど、このシーズンゼロあっての白泉社版。

白泉社にお引越ししてタイトルが「かげきしょうじょ!!」となった。!がひとつ増えたの。
集英社にとっては無念であろうが作品にとっては、白泉社に引っ越したことでスムーズに人気がでた。

ライジング!」を知っているか

「かげきしょうじょ!」を初めて読んだときの私の印象は「なんだ宮苑か」であった。宮苑とは、マンガ「ライジング!」の舞台となる「宮苑歌劇団」のことで、宝塚歌劇をモデルにした漫画といえば、「ライジング!」がまず思い浮かぶ。
氷室冴子先生が原作、藤田和子先生が作画という。私の世代の女子であったものならみんな知ってるでしょなコンビで、もう20年以上前に読んだきりなのによく覚えている。
氷室冴子先生といえば有名なヅカファン。しかし「ライジング!」は宝塚歌劇をモデルにしつつも、おそらくあえて宝塚歌劇とは違う設定や仕組みをたくさん取り入れて現実の宝塚歌劇とは程よい距離を作ったうえで、創造したキャラクタたちを動かしたあたり、作者がファンだからこそあえてそうしたのかなと思う。

ライジング!」の主人公は、ダンスがしたいだけで、少女歌劇のことも「宮苑歌劇団」のことも何も知らずに受験して入ってきた、というタイプのキャラ。そのため色々型破りであり、この「型破り」がテーマにもなる。恩師となる人物が「宮苑歌劇団」の枠を破りたい、娘役トップスターを作りたいという野望を持っており、主人公はそこに向かっていくが、という内容。

特に印象的だったシーンとして、人気スターとなったものの、舞台人としてちょっと迷いが出始めていたころの主人公、舞台に登場したシーンで客席から拍手をもらい内心ホッとする。
しかし、友人であり舞台人としてライバルでもあった娘役が登場しているシーンの客席の反応を見て、自分とは違うことにハッとする。
自分への拍手は文字通り「自分への拍手」であって、あの娘役の子の舞台シーンでの客席の拍手や涙は、芝居に感動してのことだったという事実に気が付き、「宮苑のスターである自分が舞台に出ればなんであっても拍手が来る、客がくる」ということと「舞台人として役者として芝居そのものが評価される・芝居を見てもらえる」ということのギャップに悩む という場面。

もうひとつが、主人公が「宮苑歌劇団」を飛び出した後、外部舞台のオーディションに参加する。得意のタップダンスを披露するものの、結果は伴わない。自分が一番、オーディションで目立ち、内容もよかったはずなのに役がもらえないという現実に直面し、ショービジネスの厳しさを知る という場面。

なんというか、どちらも今思い返しても、普遍的なシーンなのでは?と感じてしまう。

確か、私がこの「ライジング!」を読んだ時点で「古いマンガ」だった。いつのものか調べてみると、連載時期が「1981年から1984年」とあるからかなりのもの。
大地真央がトップ時代に連載されていたマンガよ。

「かげきしょじょ!!」の進む先は

「かげきしょうじょ!!」は現在11巻まで出ているのかな。ここまでは購入しているけれども、アニメ化したものは、私は観るのをやめた。アニメで観るにはメイン主人公「渡辺さらさ」は、うざいだろうとおもったから笑。
「かげきしょうじょ!!」の物語はいまのところ、ほとんど音楽学校の生徒としてのキャラクタたちの物語で進んでいるが、授業とか音校生活そのものが深堀りされるってほどでもない。コミックスは大体、本編+番外編1本で構成されており、この番外編は脇役だったり、歌劇団を目指すとある少女を描いていたりと、まさに群像芝居。
メイン主人公はふたり。「渡辺さらさ」と「奈良田愛」。タイプの違う少女で、渡辺さらさはドラゴンボール孫悟空タイプ、奈良田愛はドラゴンボールでいうピッコロ、みたいな…。

「渡辺さらさ」のほうは出自は複雑なものの天衣無縫系で大きな才能と大きな欠陥があるな~ってタイプ。「奈良田愛」のほうは元集団アイドル出身でタレント性抜群だけど人間力に乏しいが、目覚めたらいけんじゃねってタイプ。どちらも学年の優等生というわけではない。とにかく優等生の成績一番の委員長系や、きっといい舞台人になったろうに家の商売が失敗して学校を去るものなど、様々な少女がでてくるし、とにかく青春って感じ。

すすめる?すすめない?

宝塚歌劇に対して真面目なファンには、マンガは勧めないかな。「ん~。今どきオスカル様になりたいっていわれても…」とモヤってしまう人もいると思う。
タカラヅカがモデル?タカラヅカ風味があるならおもしろそ~!と、なんでもオッケーなタイプの人ならきっと面白いのではと思う。
マンガとしては「ライジング!」のほうがはるかに大人っぽい(昔の少女漫画はなんでもかんでも、精神年齢高いよね)。「かげきしょじょ!!」はとっても洗練されて絵もきれいだしマンガとしてとても高品質。
タカラヅカがモデルとなれば、ちょいちょい出てくる演技力を見せる場面だけ描いても仕方がない。そもそも男役・娘役については全然まだ描かれてないので、主人公たちの男役・娘役が決まっていくところから、そういう男役づくり、娘役づくりのエピソードもみられるのかな?まだそういうのが全然なので、これからかな?
でも、とにかく主人公の生まれ育ちに起因する脇エピソードもてんこ盛りっぽいので、「タカラヅカをモデルにしたジェンヌなる少女たちのマンガ」感は、まだまだうっすい。

宝塚歌劇そのものをモデルにした漫画はもっと色々、ちょいちょい調べると出てくるけれども、実はマンガにしづらいものだと思う。
というのも、モデルとなるタカラヅカに敬意を払って、誤解を生まないよう設定を忠実にマンガに持ってこようとすると、マンガ的なドラマに乏しくなってしまうからだと思われる。

だって現実のタカラヅカでの、御曹司!とか抜擢!とか研1で新公ヒロインとか なんかもう充分ドラマチックなわけで。タカラヅカをモデルにするなら本当のところ「研20のトップスター」みたいな方がはるかにドラマチックであるが、世の中のドラマチックの基準が「新人が早期抜擢」「素人だったのに主演」とかそういうガラスの仮面的な展開を望むわけで。
その逆のほうがよっぽど感動的なものがあるタカラヅカを題材にして、特別な才能を持ったスターを描こうにも、取材すればするほど作者にとっては実に窮屈なことになるのではと思う。

「若い子が凄いのがすごい」信仰があることに、こんなところで気が付く。



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抜擢組の半分

月組千秋楽からはや数週間。
よい公演でした。その後のざわざわも月組らしくてよし。とにもかくにもこの時代によく幕をおろした。えらい。
残念だったのは、ファンの中に、舞台も配信も観ずにSNSとダイジェスト映像のみでSNS上で意見ばらまいていた人たち。それはどうかと思う。

HDD内の録画可能残量が気になったので、ちょっとしたスカステの番組などもいつまでも取っておいても仕方あるまいと整理しまくった。

しょうもないことに気づく

HDD内にないものも含め、再放送もあるここ10年内くらいのスカステ番組や、wowowの番組も含め、手元に保存していた色々なジェンヌたちの番組などを整理整頓しはじめたところ、なんとはなしに、残酷か情が深いかはわからんけれども、よい役に抜擢を受けるジェンヌの半分は数年内に辞めていくなあ などと思った。

誰と名前を挙げることでもないのだけれど、記憶に新しい5年くらい前の舞台映像をみて、ああいいなとか、あ、こんな子いたなという、目立つ脇役陣に注目すると、一人二人は今も残っているかもしれないが、大体はもういないの。

青春だからしかたない

舞台に身をささげるという生き方自体、難しいものだ。タカラジェンヌとファンの距離は近いから忘れがちだけれども、タカラジェンヌという生き物は基本的にエンタメ界のエリートたちである。だからあれほど保護され優遇された舞台環境に立つことができる(それでもトレーナーやマネジメントなど足りないことも山ほどあるが)。
いま光っているスターさんたちをみたら応援しかないが、スポーツマン、アスリートと変わらぬ彼女たちが、それぞれ決めた時期にタカラジェンヌを「引退」していくのは当然のことで、その「引退」が「退団公演」をひっさげての大イベントとなるのは各組一時代にたったひとりのトップスターのみ。それ以外の毎年約40人弱は、ファンの記憶に焼き付いているとはいえ、何年も宝塚歌劇をみていると「ああそういえば卒業したっけね」と大きな流れのなかについ埋もれがちになってしまう。少し前の舞台をみると、ああもうみんな卒業しているんだなあ などと感慨にふけるのも、タカラヅカの面白味の一つであると思う。

半分と感じたのには

大体、6年7年くらい前の舞台の映像を観ていたときだったかにふと思ったことなので、しょうもない偏見である。
主演、2番目~5番目に大きい役 までを務めるジェンヌは、そのなかに専科が一人くらい混じってたりもするが、トップとトップ候補組で固められているようなものだ。しかしここから一人か二人は数年後に卒業してたりする。
脇役だが目立つ役が5つくらいあったとして、そこに抜擢された一番若手の子を除けば、そこから3人くらいは卒業していて、1人2人は上級生として活躍していて。抜擢されていた若手は御曹司と呼ばれていたりして。
数年前、ダンスメインの場面を任されてた若手~中堅数人、なんてのは、その公演で卒業する子が高確率で抜擢されていて…。
こんな風に「ちょっと前の舞台映像」を観ると目立つ役の半分くらいは、もういないのだ。抜擢とはそういう選抜でもあるのかと思うと、なんと厳しい世界かと思う。

外部では

一般的な劇団や、駆け出しの声優などは若手・新人の頃は生活のためにダブルワーク当たり前であるし、役が付かないうちはバイト三昧であるし、役が付いたらついたで、その役はわずか数週間・数か月の役割なので、先々の予定の不透明さはベテランでも変わらないという世界。
数年前からお付き合いのある舞台女優さんが、このコロナ禍で舞台の仕事がストップしてしまい、その間はご本人がお持ちの資格でインストラクター業をされていた。
それが数か月前から、ぼちぼち舞台の仕事がかえってきたようで、お稽古しているよ、とか今度公演が、という嬉しい連絡がまたやってくるようになった。

しかしいままた、タカラヅカ以外の舞台は中止のニュースが目立っている。
クラスター発生の有無、そのリスクの有無で決まるのかなと想像するけれど…、シンプルに「舞台で食っていける世界」が存続することを願うばかり。

本日は雪組お披露目 東京公演の先着日であった。昼過ぎにみるとまだチケットに余裕があり、友人を誘って、チケットを購入して、ということができた。
ますます人が動けなくなってきているのかな、と感じる。







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どこを観るかという話

SS席がすべての観客にとって絶対いいかというと、そういうことでもないらしい。
人によっては2階席センターブロックあたりの前方で、とにかく俯瞰して観たい人もいれば、多少観づらくても金額との折り合い第一で、安い席が満足度高いという人もいるし、好きな役者の立ち位置の都合で上手より、下手よりどちらかに寄りたい人もいるし、どこでもいいやって人もいる。

私は断然SS席がいい派

私は断然、舞台が近くて観やすいSS席がいい(当たらないけど)。
というのも、私は役者の顔の表情をよく観たい気持ちが強いので、できるだけ舞台に近いところで観たい。視力が悪いので、眼鏡だと後方席ではなかなか観づらく、オペラグラスの場合、メガネの着脱(私の使用しているものは裸眼でピントが合うオペラ)がせわしないので、ある程度近いとありがたい。

一階14列目あたりからだと、視界よしオペラグラスよし。
一階20列目あたりでもまあいいけど細かい表情はあんまり見えなくなる。

ただSS席2列目に座った時は、そりゃあトップスターの奥歯もみえるんだけれども、そのかわり、70余名がうわっと並んだ迫力の全体像というのは、近すぎて霞む。

あと興奮して瞳孔が開いた状態での観劇となる為、SS席は記憶に残りづらいのも難点。

宝塚の2階席は楽しい

ムラで一回、東京でも一回かな?2階席で観劇したときの思い出は、
「よく観えるしジェンヌさんたちが気を付けて目線くれるし楽しい」
だった。
友会頼みの私のチケはほぼ一階席の10番台半ば以降の列のことがほとんどで、このあたりはなんというか、観やすさは平均的なんだけれども、全てのジェンヌの目線が素通りするエリアである。

タカラジェンヌたちが視線を投げるのは必ず
・最前列エリア
・一階後方
・2階席
・関係者の席
に限られている(と私は感じる)。

たとえ最前列エリアに座っても、ほとんどのジェンヌさんは常に動いているので、ふんわり撫でていくように視線を撒いているといつも感じる。

例外もある

宙組のエルハポンとアクアヴィーテのとき、私はSS席2列目くらいだったか。
あのときは、自分の顔に何かついてるのかと疑うほど、トップスター真風涼帆がしっかりとこれでもかと銀橋でてくるたびに何度もこちらの目を見てくれるので、もうそれしか覚えてないってくらいになった。
他のスターさんたちはニコニコさあっと過ぎるのにね。流石。

あと月組の暁千星。外箱公演と本公演で舞台にかなり近い席に座れたとき、暁千星はこちらの視線にすぐ感づくというか。
ありちゃんをじっと観てると、スッと、チラッと見返してくるような感じがあって。大体のジェンヌさんは、基本的に舞台上で観客という全体を観ても個を観ることはないと思うのだけれど、
ありちゃんは色々めざといというのか視界が広い人なのかなと感じた。勝手に感じただけなんだけど。
ありちゃんの視線キャッチ力はアイドル的だわぁといつも感じる。

舞台全体

月組の桜嵐記とDC観劇の際、ムラで2階席に座ってはじめて、DCのオープニング、舞台全体のさらに周辺を、宇宙って感じの虹色の照明が投影されていることに気がついて、とても美しく大きくてため息がでた。
この演出の全体像が観られたのは2階席のみであった。

タカラヅカは開演5分前に幕撮影タイムがはじまる。ここでどんなものを見せるかってのは結構、これからはじまる舞台のテーマが色濃く反映されているのでは?と思う。
桜嵐記では、2階席から全体を見てはじめて、絵巻物をみているかのような紙芝居を観ているかのような舞台のふちどりの飾りの効果に気がついた。

一方、歌舞伎は

歌舞伎座では9月の第三部(歌舞伎はコロナ以降、通年1日三部に分かれた上演となった)にて東海道四谷怪談坂東玉三郎片岡仁左衛門のコンビで上演される。
発表時からファンがどよめいた演目・キャストで、チケットはほぼない。
一般でようやく取られるチケットは、2階一等席という「高くて観づらい席」しかなかった。

私はぐぬぬとなりながらも、高くて観づらい2階席の上手寄りブロックで僅かに残っているチケットを一枚購入した。15000円。あの席では多分花道は、ほぼみえないだろうなぁ…
千鳥配置での販売なので、少しは視界が広いはずだが。

私は20代のころ歌舞伎座に通った。
あの劇場は曲者で、値段と見やすさが全くと言っていいほど伴わない。4000円程度でめちゃくちゃ観やすいいい席と、15000円でも歌舞伎の醍醐味である花道が一切見えない席があるという魔窟である。

どうもその数々の失敗経験から、「一階の前の方がいいや」という価値観を持つことになったのかもしれない。

小劇場なら絶対、1番後ろの方がいいんだけれどね。後ろでも近いから全体も観やすいし。

いずれの場合でも、私はいつも劇場で注目しているのは役者。その顔・表情になる。
細かいのはみえなくとも芝居全体を後ろの席でみて100パーセント楽しめる領域には、なかなか辿り着けない。



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劇場版『桜嵐記』

東京にやってきた月組桜嵐記が、宝塚大劇場版とどう違うのか、その印象を考えてみると、
ムラがテレビシリーズ、東宝が劇場版
そんな感じ。

うん、そんな感じ。



これは私の観劇の記録

あくまでいち観客であった自分の受けた印象なので、あいまいでありあやふやかもしれないが、上田久美子先生は観客に演出意図を正しく伝える努力や配慮を大変きっちりとなさる方だと感じている。つまり演出家としてただきれいに舞台をつくるんではなく、そもそも舞台芸術って何のためじゃッてことを考えて仕事しているのね。観客に伝わらなかったら意味がないわけで。
それでもバカな誤解をする客はいる。あらゆるジャンルでそれはいる。あるミステリ作家が「作品をどう受け取るかは読者にゆだねるが、明らかな誤読をされないよう編集・作家・校正は仕事をする。しかしそれでも、たとえば夜の訪れを表現するのに『太陽は眠りについた』と表現したものを、読者からの手紙に「太陽は動物みたいに寝ませんよ」と返事が来るようなことは常にある」という経験談(細かい比喩はニュアンス)を語っていた文章を思い出す。観劇者、読者ともに教養は必要で、いちばんごまかしやすい異世界ファンタジーを舞台にでもすれば多少ゆるい設定でも、作者側・観劇者/読者側双方にまかり通るかもしれないが、ウエクミ先生はフライングサパでいかなる設定にもぬるくないことを既に実証済み。
で、やはりどんなジャンルの作品であっても、一番難しいのが史実をもとにした歴史物語であると思う。こと南北朝は、資料も限られているうえに観劇者たちと共有できる、その時代の一般常識のラインもないときている。そのうえで、時代の表現、人々の生きざま、キャラクタ、舞台装置に効果と、観れば観るほど圧倒されるような仕上がりのオリジナル舞台をつくりあげた宝塚歌劇は本当に日本一の組織と思う。

7月も観みていた

東京の初日から何日も経っていないある日、私は最初の東京公演を観ていた。その前の観劇はムラのアフロ回であったので千秋楽直前。それから2週間ちょい。東京のお稽古を経てのお芝居は、なんだかまるで別モノにみえた。
彩度がぐっと上がって、輪郭がはっきりした と思った。どこがどうといえばいいのか…。情緒的でもあった、感情にまかせて流れていた部分がもういちど型にはまった、というか。「あれ?なんか全然違うぞ?同じだけど」というものが確かにあった。ただ細かい違いに関する言語化が私には難しかったので印象のみになってしまうのがもどかしいが、演出意図を変えたとかいうことではなく、お化粧直しとか、帯しめなおしとか、そういう「整えた」感じかしら。

で、やっと8月もみた

なんだろう?何が違ったのかすぐに見直したい!と思えどチケットはなく、私が友会で取れていたもう一枚は、大千秋楽週の回。もう公演数残り僅かというところなので、またなにか変化が起こっているのではと思い、どんなだろう?と思っていざ幕が開いたら、まず声がでかい(笑)。
音響…?いや真相はわからんけれども、そんなに常に声をお張りになってたかしら?と喉を心配するくらい、びんびんに元気というかなんか勢いを増していたというか。
そして桜嵐記前半がとくに、間合いが変わっていたように思う。これは演出の調整かなあ。テンポが速くなっていたと感じた。芝居が走っているんではなく、前半の全体の間合いが縮んでいたというか。逆にこの日の楠木正成の最後の独唱はゆっくりに感じた。
実際に、ちょうどキャトルレーヴオンラインさんから届いていた桜嵐記のDVDを視聴して、この収録版は宝塚大劇場版だからそんな違う違うと思っているところの差がわかるじゃないの、と観てみた。

演出ってすごいという話

朝からDVD版桜嵐記を視聴するなんてことしてみてやっぱり泣いたりしてみたところ、想像していたよりも芝居全体の印象は先日の観劇とそう変わらなかった。確かなものは同じであるし、この作品の大事なものは全部DVDに映っていた。先日東京で観劇した桜嵐記はたしかに、このDVDに収録されているものと同じであった。
とっても面白い。舞台は生ものであるからその日その日の役者のテンションや役者同士の呼吸など、毎日違うものではあるだろう。そして何より真ん中の珠城りょうが「毎日が千秋楽」と思っていつ終わっても悔いのないよう努めていることは公言されている通りで、いつも最高の出来。本当に丁寧で舞台に対して真面目で、これは誰にもかなわないことであると思う。

劇場でたびたび目撃されるたびにノートにあれこれ書き込んでいるといわれるウエクミ先生は、細かい演技指導、調整をされとるんだろうなあと感じる。それは個も場面も「よくなっている」と客席の片隅のいち観客である自分にも伝わってきたから。
湯殿チームのテンポ、大根ぶったぎり場面の次男&ももすけの間合い、そのすぐ後の、弁内侍 楠木の戦のやり方を目の当たりにして動揺しちゃったのせりふ回し、水、どお?からの正行アドリブと弟ぶーの場面、百合が戻ってきた夫に駆け寄る場面、後醍醐天皇わし死んでないからの息苦しい邂逅…
すべて微調整されていると思う。演出は同じのまま、全体的に様式美をより際立たせたかのように、感情にまみれて芝居すりゃいいてもんじゃないという気概を見せつけられたかのような。芝居の月組の真骨頂がこの桜嵐記であることは間違いないが、とにかくその完成度が数値にできるのならば、1点でもより高くなるように絶対に手を抜かないという意思を感じた。

美しいということ

宝塚の舞台において、美しさに泣けてくるというのは最高のことではないかと思う。8月の観劇は私が、劇場で月組の珠城りょう&美園さくらと、珠城りょうの月組を観る最後の機会になったのだけれども、四条畷の戦い、舞台中央奥のせりから、真っ赤な戦場の舞台へ現れる楠木正行(珠城りょう)の姿のなんと美しかったことか。
あのシーンは全部が最高でうおおおおとなるところだが、にしてもあそこで泣いたのははじめてのことだった。とってもきれいだった。

弁内侍を演じる美園さくらは語尾がちょっと上がる響きを持たせる癖があって、和物の時代物のお姫様には言葉がさがらなくてよいのだけれども、ひゅんっと上がってクエスチョンが付いているようなおかしなことになってはいけない。以前どの回かで観劇した際はこのせりふ回しがひどく気になったが、DVDに収録されているもの、そしてこの日の観劇のときはまた違っていたので、やはり色々と研究しているのかなと感じた。ジンベエを演じる千海華蘭の演技・台詞もそういえば微妙に変わっていた。ジンベエは何度も流れをぶった切るような、武士社会の物語のなかでは異質な存在としてチョロチョロするわけだけれども、この加減が最もいい塩梅になっていたと思う。基本的に「よかったのにさらに良くなったことでよさに気づく」みたいなことの連続。
この変化について偉そうな言い回しをしてしまうと、いずれも役とか存在により説得力が増したというか。
頭の悪い言い回しになおすと、いままで完璧だと思ってたかつ丼一味唐辛子振ったらうっそ奇跡の完全食になったと感じたとき、みたいな(わからない)。

限りを知るという

この舞台を観てファンは、やめないで~と駄々こねたくなるだろうが、舞台からのメッセージをきちんと受け取るならばやはり、惜しみつつも涙とともに「あっぱれ」と拍手を送り見送ることだろうと思う。本当に最後の最後まで、真に美しいお芝居だった。月組トップスター珠城りょうの退団公演、私は生涯忘れない。












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